あたりまえの幸せ
絢瀬桜華
第1話
***
ただいま、と玄関を開けるなりリビングへ向かって声を掛けると、ひょっこりと顔を出した母親がおかえり、と返してきた。
家の外には換気扇から漏れた今日の夕飯の匂いが広まっていて、自転車を停めながらその日の夕飯を予想するのは恒例のことだ。もっとも、中学に入ってから母親が仕事を再開したこともあって、今では母親が作ったり私が作ったりはたまた弟妹が作ったりもしているわけではあるが。
「今日の夕飯、鶏の照り焼き?」
「おー正解。とりあえず着替えてくれば?」
「そうする」
つい先日量ったら十キロを超えていたリュックを背負って、二階の自分の部屋へ。隣の部屋の妹はもう帰っているが、高校に入学したばかりの弟はまだ部活が終わっていないらしい。リュックを置いて部屋着に着替えると、私は読書をしていた妹を強制的に連れて階下へ降りた。
母親が鶏肉の照り焼きの世話をしているのを見ながら、まな板と包丁を取り出して冷蔵庫を漁る。見つけたキャベツを取り出して五枚。残ったキャベツはビニール袋へ入れて再び冷蔵庫へ。キャベツの千切りをする間、妹には洗い物の片づけを頼んでおく。
いつもと変わらない光景、いつもと変わらない料理。
家に帰れば必ず夕飯がある。母親の帰りが遅いときは私が作る。農家で米も作っているから少なくとも白いご飯はある。それから野菜。毎朝白いご飯と味噌汁は出てくるし、お昼だって平日はお弁当、休日は自宅。周りに飲食店はないから外食しようなんて思わないし、家で食事を作って毎食家のご飯を食べることが当たり前。
白いご飯に玉ねぎのお吸い物、鶏肉の照り焼きに千切りキャベツ。前の日に作っておいたこんにゃくの煮物と、一昨日作ったピーマンと茄子の味噌炒め。
テーブルに並べている間、妹が父親を呼びに行く。自営業のため、家で仕事をしている父親は大抵家にいるのだ。その間に私がお吸い物を取り分け、母親がご飯茶碗を所定の位置にセットする。弟はまだ帰らないため、忘れないように汁椀だけ席に置いておいてそれぞれ定位置につく。
いただきます、と声を揃えて、箸を手に取る。最初にお吸い物に手を付けてから、野菜、肉。地味にはまっている煮物と味噌炒めにも箸をつけながら。
いつも通りの味。おふくろの味、というべきなのか、いやでも私も作っているわけだから違うのか。そもそも私の味も母親からのものだからおふくろの味、でいいのか。
そんなことを考えながら、自分の分を食べ終えて。食器洗いを済ませると、課題を済ませるために自室に引き上げた。
***
「わ、待って、ちょっと待ってなんか白い」
「えっ何が入ってたの」
「ゆで卵。味付けなし」
「まじか」
ホームルームと掃除が終わった後、四時から自主学習を開始する。それまで約十分、その間におにぎりを食べるのは恒例行事になりつつある。
というのも、食べないと体重が減るのである。母親の体質をしっかり受け継いだ私は、世の女性から怒られそうなものではあるが中々太らない。確かに高校三年生、受験勉強をして頭は使っているし通学も片道四十分を自転車で通ってはいるが、それでも食べても太らないどころか食べないと減る始末である。
一年の時はチョコなどのお菓子で凌いでいた。二年になってからは食べる量こそ変わらないが早弁をしていた。三年になって早弁友達がいなくなったために早弁はやめたものの、腹が減るのは変わらない。それを見かねた母親がおにぎりを握ってくれるようになった次第。
基本的に小さい頃から弁当のふたを閉めるのは自分たち子どもの役割だった。だから、他の子の『今日のお弁当のおかずなんだろう』という気持ちを味わったことがない。ふたを閉めるようにしつけたのは母親だが、少しは罪悪感もあったらしい。おにぎりでそれを代用しようとしているわけである。
「まさかおにぎりにゆで卵一個ってある?」
「え、まるまる?」
「いえす。あと普通の鶏の卵だから。うずらじゃないから」
「いやそれおっきくない!?」
「確かにちょっと大きいなあとは思ってたよ……っ」
してくれているのはありがたいと言えばありがたいのだが、こうお茶目を発揮されると反応に困る。あとゆで卵、いくら塩握りだとしてもちょっと味が薄い。
きっと帰ったら反応を楽しみにしてるんだろうな、と思いながら、若干ぱさぱさするおにぎりをしっかり腹に収めた。まあ確かに突拍子もないことはしてくるが、残したことはない。作る大変さは身をもって知っているので、ちゃんと完食するようにしている。
まあ、なんだかんだそういうところが嫌いじゃないし、好きだし、まずくはないわけであって。
明日の具材はなんだろう。定番ものの塩握りか、梅干しか、昆布か、それとも準定番ものの卵焼きにウインナー、唐揚げか。それとも本当に変わり種か。
私だって楽しんでいる。受験勉強合間の、ささやかな楽しみの一つだ。
さて、エネルギーもチャージしたし、七時まで頑張りますか。
気合いを入れ直しながら、私は友達と掃除の終わった教室に乗り込んだ。
***
受験が終わり、合格発表、卒業式が終わると、春休みである。
仕事に行く母親と学校へ行く弟妹を見送って、自宅に残った私の仕事は食事当番。お昼は父親と二人なのでそこまで悩まないが、問題は夕飯である。
おかずは好きに買ってきな、と言われているため、一人自転車を走らせてスーパーまで買い物に行く。そういえば弟が揚げだし豆腐が食べたいと言っていたか、と思い出して豆腐を三丁かごに放り込んだ。ついでに揚げ物をやるなら唐揚げか、鶏肉はチルド室にあったはずだ。
事前にチェックしておいた冷蔵庫の中を思い出しながら、数日分のおかずをざっと考えておく。今は大根がまだあったか、それからほうれん草や小松菜、水菜などの葉物野菜。里芋があったはずだから煮物が作れるだろう。あ、キャベツと人参は買っておこう。
料理をするのは好きだ。進学先は看護学校だけど。でも小さい頃から農業の手伝いをしてきて、物心つく前から料理をしていた私は、料理をするのが当たり前なのだ。
いつも作るものだけじゃなくて、たまには少し遊ぼうか。
作れるものと、作りたいものを頭の中に浮かべながら、数日間の食事を考えるのは、楽しい。実家のご飯が、好き。母親の手料理でも、自分で作ったものでも、とにかく実家で誰かが作ったものが好きだ。
だって、誰かの作ったご飯って、美味しくない?
自分の手料理だったとしても、誰かと一緒に食べるごはんほどおいしいものはないと思う。
自画自賛と言われようと、そういうものなのだ。自分たちが作ったお米と野菜、自分たちで作った料理。それらを家族そろって、まあ時折欠けてしまうけれど、五人で話しながら食べる時間。
四月から、寮生活が始まる。寮は自炊だから、自分で毎食作らなければならない。それは別に手間とは思わないが、誰かと食べることがなくなるのか、と考えると、それだけで少し寂しい気がして、少し食事が味気なくなる気がした。
同じ県内だから、帰れないわけではないけれど。ずっと家族で食事をしてきた身としては、大きな変化であることに変わりはない。
嗚呼、でも。その分、色んな料理を、好きなように作ることができる。一人は寂しいけれど、そのうち慣れは来るものだ。それよりも、実家のお米と実家の野菜、それらは変わらずに食べることができるのだから、贅沢は言っていられない。
美味しいご飯とは、なんだろう。
江戸時代から続く老舗料理店だとか、ミシュランで選ばれただとか。そういった、一般の人からの基準というものは、確かにあるのかもしれない。でも、私は違うと思う。本当に美味しいと思えるもの、ずっと食べ続けられるもの。それって、高い食事よりも、『おふくろの味』と呼ばれる食事の方が、あてはまるのではないかと。
食べたいと言った、弟の表情を思い出しながら、私は豆腐に片栗粉をつけて揚げていく。
誰かを想って作ること。手料理が当たり前であること。
実は何よりも難しいことなのかもしれない。私の中の、美味しい料理。それは多分、自分を含めた、誰かが誰かのために作った料理と、きっと。
***
寮暮らしを開始してから、早二年が経過した。
専門学校ももう三年生である。一年後はもう社会人。無事に国家試験に合格していればの話ではあるが。
一人暮らしは自由気ままだ。正直なところ、ご飯を食べる・食べないですらも自由だ。
それでも、料理が好きだった。誰かの、美味しい、という言葉が好きだった。作らない選択肢なんてなかったし、実家からもらうお米や野菜を粗末にはしたくないから、私は毎日ちゃんと自炊をしていた。
それでも、どうしても食べられなくなった時期があった。今もまだ、少しずつ元に戻している最中だ。寮暮らしを開始した当初よりは食べている量は少ないかもしれない。精神的な問題だから、こればかりはどうしようもなかった。
だけど、食べられないだけであって、作りたい欲は寧ろ今までよりも強くなっている。
料理動画を漁るのは楽しいし、実家から持って帰ってくる野菜や、農業大学に通い始めた弟からもらう野菜たちを、いかに腐らせず、次を貰う時までに使い切るか、それを考えるのも楽しくて、私は作ることはやめられなかった。
寮だから、当然他の友達も同じ寮に住んでいる。消費してくれる当ては多い。
実習で中々好きに料理ができないときに、私の中で料理というのはストレス発散の一つであることを知った。自分のため、よりも、誰かのために作る料理が好きだった。一人で食べる食事よりも、誰かと食べる食事の方が美味しいと思った。
料理なんて、突き詰れば洗う、切る、それから焼いたり茹でたり蒸したり煮たり、たったそれだけのこと。たったそれだけのことでも、やりやすい順番を考えるのは楽しいし、それだけのことで食事が作られている、というのはある意味すごいことなのかもしれないと思った。
一人分の料理を作ることに慣れてしまった。とはいえ、大量に作ってなくなるまで食べているわけだから、毎度毎度一人分を作っているわけではないのだが。けれど、一人のご飯、に慣れてしまったのは本当のことだ。
だから、一人のご飯がほとんどなかった頃が、少し羨ましくなる。そして、誰かのため、に作っていた頃が。
自分のために作ることが嫌なわけではない。でも、気付いてしまったのだ。誰かのために作ること。誰かを想って作ること。誰かを考えながら、自分以外の誰かが喜んでくれるのではないかと期待しながら食事を作る楽しさと、────その時の食事の美味しさに。
当たり前にあるものだと思っていた。だって、私にはずっと当たり前のものだったから。
違うのだと気付いたのは、専門学校に入ってからだ。
私の世界も広がった。地方出身の人が多かった。SNSでの知り合いが増えた。だから、周りの人々の食事事情、というものを知る機会も、増えた。
帰っても食事がない。外食が多い。朝ご飯は食べない。家族で集まって食べることがない。
当たり前だと思っていたことは、全然当たり前なんかじゃなかった。当たり前に、みんなで一緒に手料理を食べる、ただそれだけのことだと思っていたことは、それだけ、なんかではなかった。
今までの自分は、とても恵まれていたことを、私は知った。
みんなで食べる食事が美味しいこと。みんなのために作る料理が美味しいこと。でもそれって当たり前なんかではなくて、それが当たり前である環境はとても幸せであること。
美味しいのはきっと、誰かのために、何をどう想い願って作ったのか、食事に『ものがたり』があるからなのではないかと、ふと思った。
些細なことでいい。単純な事だっていい。それこそ弟が食べたいと言っていたから、妹の誕生日だから、母親が疲れていそうだったから。そういう『理由』はきっと『ものがたり』で、物語のある料理は誰かを想って作られたもので、例えそれが自分に向けた想いであったとしても、誰かを想って作る料理は、きっと『美味しい』ものなのだ。
実家に帰る度に、ご飯を作ることになっている。なんだかんだいって、いやではないのだと。面倒だなんて口では言いながら、私は楽しんでいるのだと。
美味しい料理って、なんだろう。
高くなくていい。安くていい。見切り品万歳。安売り上等。
ただ、誰かのための食事でありますように。これから先も、誰かのための食事を作ることができますように。
当たり前の幸せを、これから先も感じることができますように。
さて、今週実家に帰ったときは何を作ろうか。この間作ったそら豆と新玉ねぎのサラダは美味しかった。玉ねぎと言えば、コンソメ煮も捨てがたい。それともレタスとツナサラダにするか、嗚呼でも他に何の野菜があるのか確認してからじゃないと。
考えながら、荷造りをする。誰かのための料理を作れることに感謝しながら、久しぶりの五人での食事に思いを馳せる。
きっと、どんな料理だって、美味しいと思える。
だって、一人じゃないから。誰かのための料理だから。
楽しみだな。楽しいだろうな。考えただけでも、もう既に楽しいんだから。
支度を済ませて、布団に潜り込む。そっと目を瞑って、電車の経路を思い出す。思ったよりも早くに訪れた眠気に身を委ねると、私はすうっと眠りの国に旅立った。
あたりまえの幸せ 絢瀬桜華 @ouka-1014
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます