正気の沙汰とも思えない

古池ねじ

第1話

 スーパーで晩飯の弁当を買って外に出ると、片手に米の袋を抱えて片手にぱんぱんのエコバッグを持ったいかにも主婦って感じの人が歩いていた。この後ろ姿なんかどっかで見覚えあるな、と思ってよく見たら、やっぱり知ってる人だった。走り寄って声をかける。

「こんにちは」

「えっ、あっ、ええと」

 不審そうというよりも単純に驚いているようだった。そりゃそうだよな。

「須賀です。神崎さんのお母さんですよね」

 神崎のことは普段呼び捨てなんだけど、女子なので気を使ってさん付けしてみた。

「ああ!」

 ぱっと神崎のお母さんの表情が一気に親しげになる。家が徒歩二分ぐらいの近所だし神崎とは小中高ずっと一緒だし今も同じクラスだから、会ったことは何回かある。挨拶ぐらいでまともに話したことはないけど。持ちますよ、と言ってエコバッグを結構強引に手から奪う。神崎のお母さんは一瞬え、という顔をしたけれど、俺は気づかないふりをする。ベビーカーのお母さんとか荷物が多いお年寄りにいろいろ声をかけて学習したんだけど、こういうときは強引にいかないとみんな遠慮してしまう。

「重いっすね。俺チャリなんでかごに乗せますよ」

「え、そんな」

「大丈夫っすよ」

 そう言いながらチャリに乗せて鍵を外す。神崎のお母さんは米の袋を両手で抱えて、困った顔をしていた。そんなに嫌がってはいなさそうだった。

「それも貸してください。荷台にくくります」

「え、そんな」

「大丈夫っすよ」

 さっきの繰り返しだ、と思うと、神崎のお母さんもそう思ったのか笑った。くしゃっとした笑い方が、神崎と同じだった。ジーンズとTシャツ、短いちょっと跳ねた髪に多分すっぴん。いかにもおばさん、って感じで、俺の母さんよりいくつか年上だろう。それでも高校生の女子と同じ笑い方なんだな、というのが、なんか面白かった。

「優しいんだ」

「優しいんすよ。よく言われます」

 笑って見せると、笑いながら袋を渡してくれた。荷台にくくって、歩き出す。

「ごめんねなんだか」

「いや全然。しかし買い物大変っすね。歩きでしょ」

「うーん」

 と神崎のお母さんは照れくさそうに頬をかいた。

「本当はこんなに買うはずじゃなかったんだけどね。お米安かったから、つい」

「あー神崎さんのお母さんってそういう感じですか」

 なれなれしいことを言っても、神崎のお母さんは楽しそうに笑ってくれた。

「恵美にはよく呆れられるけど」

「神崎さんしっかりしてますもんね」

「ねー誰に似たのか」

「顔は似てますよね」

「そう?」

 と首を傾げた神崎のお母さんの顔を見ていると、よくわからなくなった。ついさっきまで、似てると思ってたんだけど。

「須賀くんは部活お休み?」

「あ、俺は部活してないです」

 うちの高校は別に強制じゃないけどほとんどの生徒が部活をやっている。うちのクラスでも部活に本当に入っていないのは俺ぐらいだと思う。

「あ、そうなの」

 少しだけ気まずそうにしているので笑って見せる。

「人助けで忙しいんで」

 ちゃんと笑いが返ってきたので安心した。

「神崎さんはブラスバンドですっけ」

 本当は中学からフルートをやってることも知ってるけど、なんとなく知らないふりをする。

「そうそう。あれも結構忙しいみたい。朝も早いし」

「なんかしょっちゅう走ってますよ。大変そうですよね」

「ね。私も高校は帰宅部だったからあんなに大変そうなのはちょっと信じられない」

「帰宅部だったんですか?」

 意外な感じがした。神崎のお母さんが帰宅部だったことが意外というよりも、神崎のお母さんにも高校時代があったということが。いや、あるのが当たり前なんだけど。

「うん。あんまり校則が厳しくなくてね。私服の学校だったし、バイトしたりしてお金あったから結構学校帰りに遊んでた」

「えーいいな」

「今の子、真面目だよね」

「神崎さんはそうだけど俺はそうでもないっすよ帰宅部だし」

「そうなの? 仲間だね」

「ね!」

 面白くなって声を出して笑った。神崎のお母さんもつられて笑っている。なんかこういう感じ久しぶりだな、と思う。久しぶりだなって言っても、同級生のお母さんとこんなに気安く話すこととか多分初めてだから、自分でもなんでそう思ったのかよくわからない。

「最初は部活入ってたんすけどね」

 気安さついでにそんなことが口をついて出て、自分で驚いた。神崎のお母さんは俺の驚きには気づかず普通に聞き返してくる。

「そうなの。どこ?」

「陸上です」

「あらそうなの。うちの高校結構強いんじゃなかったっけ。種目は?」

「短距離です」

「へえ。いいなあ。私は足が遅くて。運動神経のいい人うらやましい」

 この人なんでやめたのかは聞かないんだな、と思ったら、自分から話したくなった。

「俺結構速かったんですけど、恋愛でごたごたして暴力沙汰になってやめました」

「あらまあ」

 あらまあって面白いな、と笑う。

「停学とかにはならなかったんですけどね。部長殴っちゃったんで居づらくて」

「あらー」

「あらー。ですよ。まあ帰宅部も悪くないっすね。時間あるんで。人助けもできるし」

 冗談っぽく言うけど、困ってる人に声をかけだしたのは、部活をやめてからだった。そういうことをしていると、屑みたいな自分をちょっとでも埋め合わせることができるような気がした。

「高校生も大変だねえ」

「大変っす」

 軽く言いながら、軽く話せる自分に驚いた。

「女子の陸上の子に二股かけられてたんですよね」

「あらあら」

「あらあらですよねえ。なんか俺とのやりとりとか全部部長に見せてたんすよ」

「それは……ちょっと、ねえ」

「ちょっと、ねえ、ですよ。ほんと」

 言ってる間に笑えてきて、俺が笑うと神崎のお母さんも笑うので、二人で笑った。ああ、時間が経ったんだな、と笑いながら思う。その話はもう、あのときみたいに体の中全部ぐちゃぐちゃにされたような気持ちにはならなくて、あらあら、という感じの、一つの話題になっていた。あんなにひどいことにも、時間が経てば、どうにかなってしまうんだな、と、ちょっとだけ体のどこかがぐちゃ、となる。でもそのうち、こういうのもなくなって、ただの笑い話、ちょっとした失敗みたいに話せる日が来るんだろうと、初めて思った。

「今思うと俺も二人も頭おかしいですよね。なんだったんだろ」

 少しだけ、目尻が泣きそうな感じに熱くなった。熱くなったけど、泣かなかった。

「まあ、そういうものだからねえ。若いときの恋愛って」

 相槌以外の返事に驚いて神崎のお母さんの顔を見る。普通のおばさんそのものの外見の中で、目だけがすごく静かだった。俺よりずっと長い時間ずっといろんなものを、その目は見てきたんだろうと思った。

「神崎さんのお母さんも?」

「そりゃあねえ。正気の沙汰とも思えないような相手と正気の沙汰とも思えないようなことをね」

「正気の沙汰」

 知ってはいたけどそんな言葉を使う人に初めて会った。どう生きたらそういうふうになるんだろう。

「でも若かったからね。そういうのじゃないと恋愛じゃないと思いこんでたから。そんなことないのにね」

「そんなことないんですか」

「正気の沙汰とも思えないような相手と結婚したり子供育てたりとか、できないでしょ」

「はー……」

 わかんないな、と思った。結婚とか子育てとか、そういうものを恋愛とも、自分とも、関係あるものだと思ったことがない。ないけど、いつかはそういうふうに考えるようになるのかもしれない。親のことを考えて、親と恋愛、という組み合わせに、ちょっと嫌な気分になった。嫌な気分になるのも、変な話だけど。

「高校生にはまだ早いかもね。恵美もふわふわした恋愛してるんだろうし」

「神崎さんですか」

「詳しくは知らないけど、若者らしい恋愛してるみたい。ときどきちょっとだけ話してくれる」

「へえ」

 神崎はそんなに女らしい感じのしない女子だけど、やっぱりそういうやつも恋愛してんだな、と思うと、居心地が悪い気分になる。

「もっと地に足をつけてほしいとは思うけど、最低限は気を付けてるみたいだし、しょうがない」

「しょうがないっすか」

「うん。それにね、まあ、取り返しのつかないことって、若いうちはそんなにないからね」

 なんだかうまく返事ができなかった。

 取り返しのつかないことって、若いうちはそんなにないからね。

 それが本当のことなのか、俺には全然わからない。でも本当のことだったらな、と思う。そういうことを、誰かがはっきり信じているというのは、なんか、嬉しかった。俺に向けた言葉じゃなくても。取り返せるんだ。そう、自分にこっそり言い聞かせる。これから全然取り返せる。大丈夫だ。

「あ、私が話したって恵美に言わないでね」

「言いませんよ」

「よかった。あー私口が軽くって」

「気を付けてくださいよ」

 きょとんとした後、それからふふふとおかしそうに笑う。変なふうに跳ねた髪が笑い声に合わせて揺れる。ずいぶんゆっくり歩いていたけれど、そろそろ家が近づいて来た。神崎の住んでるマンションの前の道に来る。

「あ、神崎さんち」

「うん。須賀君ありがとうね本当に」

「いえいえ。ここでいいっすか。部屋まで運びますか?」

「大丈夫大丈夫。もともと一人で行くつもりだったんだし」

「はは。次は気を付けてくださいよ」

 神崎のお母さんは楽しそうに笑う。くすんだ色の唇から歯が覗いて、それがすごく白かった。

「あ、そうだ」

 俺が米をくくった紐をほどいてる間に、神崎のお母さんはエコバッグをごそごそと漁っている。

「これあげる」

「え」

「おやつに食べようと思ってたけど、お礼」

 ポテトチップスだった。ちょっと高いやつ。人気があるのでちょっと前まで販売中止になっていて、食べたいけどないとクラスの誰かも話していた。

「ポテチ嫌い?」

「いや……好きですけど」

「じゃあどうぞ。ありがとうね。本当に」

「いや別にお礼もらうほどのことも」

「あるよ。ありがとう。じゃ、またね」

 よいしょ、と神崎のお母さんは荷物を持ちあげて、よたよたとエントランスに消えていった。俺はポテトチップスの袋を弁当の上に乗せる。

 また会えるかな。

 ふ、と、頭に浮かんだ言葉に笑いそうになって、でもうまく笑えなかった。また、会えるかな。

 ぼさぼさの髪。女子高生みたいな笑い顔。楽しくなる笑い声。静かな目。白い歯。思い出すのはなんだか、苦しかった。なんでそんなことが苦しいのかわからない。違う。多分わかりかけてる。わかりたくない。

 自転車にまたがって漕ぐ。できるだけスピードを出したかった。今はものを考えたくない。前の方にある空気の塊に思いっきりぶつかっても、それでも俺のどこかにさっきの笑い顔や笑い声が貼りついてて取れない。正気の沙汰とも思えない。嘘だ。

 でも、また会えたら、多分また俺から声をかけるだろう。胸の中にむずむずとしたものがあって、それはもう俺にも誰にも消せない。そんな予感がした。

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正気の沙汰とも思えない 古池ねじ @satouneji

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