決壊
翌日の昼、水簾が全員を集めて宣言した。
「夜叉姫と結婚しようと思う」
結局は、それがすべての引き金となった。
「なにを馬鹿なことを」
そう一蹴したのは紫陽羅だ。黒大理石の広間には葉名たちが集められ、全員微妙な顔をしている。アオジもなぜかその場に呼ばれて、水簾の左後ろに控えていた。堂々と立つ水簾は、心底わからないと紫陽羅へ言う。
「なんで? そうしようっていつも言ってただろ」
「あれは……本気ではないと思っていたのです。なにか考えがあるのだと」
「夜叉姫と結婚すれば世継ぎもできるし、いいだろ」
「愚かしい。秋がどういう状況かおわかりでしょう?」
「ああ。俺と夜叉姫が一緒になれば解決する」
「しませんよ。蜂の巣をつつくだけです。秋の内紛に首を突っこむ気ですか?」
「夜叉姫がうちに避難すれば丸く収まる話だろう。むこうもそうしたいと言っているし。姉の修羅姫は、秋の地をひとり占めできれば満足じゃないか?」
「それは」
「夜叉姫が秋に留まっているから、話がややこしくなる。秋を捨ててこちらの領民となれば、修羅姫もうるさく言わないはずだ」
「……そう簡単におさまる話でしょうか?」
紫陽羅は困惑しているようだった。助けを求めるように他の葉名たちを見るが、みな戸惑い、言われたことをまだ消化できずにいる。
「沙琉婆」紫陽羅は仕方なく水を向けた。「あなた、夜叉姫との文のやりとりを任されていましたね。本人に会ったことがあるのでしょう?」
沙琉婆は調子が悪そうで、蒼白な顔でびくついた。
「え、ええ。まあ」
「身体の方はどんな具合です?」
「え? えっと、はい。とてもお綺麗な方ですよ。夜叉姫様は華奢で色白で、目だって大きいし──」
「違います。夜叉姫は病に侵されてはいないのですか?」
アオジにはなんのことかわからなかったが、その場の葉名たちはみな緊張した面持ちになった。沙琉婆はすこし考え、それからしっかりと首を振る。
「そんな様子はありませんでした。すこぶる健康そうです。見た目だけの判断にはなりますが」
水簾が「よし、そういうことだから」と手を叩く。
「俺は夜叉姫と結婚する。近いうちに夏へ呼ぼうと思っている。今日はそれだけ伝えておこうと思って。じゃあ解散」
「待ってください。まだ話は終わっていません。そうだ、修羅鬼はどうするんです? 修羅鬼からも文をもらっていたでしょう?」
「お、そうだった。安漸美、そっちは断っといてくれ」
「あ、ああ……」
安漸美はハッとしたように、固い顔で茫然としている。その内心を推しはかり、アオジはなんともいえない気持ちになった。
「あの……」
水簾が去ったあと、全員が散り散りになってからも、安漸美はしばらくぼんやり立っていた。アオジが話しかけると、のろのろと顔を上げる。
「なんだ?」
「あ、いや」
見ていられずに声をかけたが、なんと慰めていいかもわからない。ぼんやりと出口へ向かう安漸美の後ろをついて歩くと、廊下の向こうから怒声が聞こえた。
「いい加減になさい!」
近くの部屋を覗くと、激昂した紫陽羅と、うずくまる沙琉婆がいた。沙琉婆は殴られたのか、床にはいつくばっている。
「何やってんだよ」
駆けよろうとした安漸美を、紫陽羅が鋭いひと睨みで制した。剣呑な怒りの気配に、安漸美は戸口で固まってしまう。
「あなたには関係ないでしょう。下がりなさい」
「でも」
そのとき、沙琉婆がおかしそうに吹き出した。床へ這いつくばったまま、喉奥で笑っている。顔はうつむいて見えないが、どこか壊れたような調子だった。紫陽羅は笑う沙琉婆の襟首を乱暴につかみ上げた。宙づりになり、首を締められた沙琉婆は苦しそうだが、それでも歪んだ顔で笑っている。
「なにがおかしい?」
紫陽羅の冷たい声にも沙琉婆は動じない。
「どうして、そんなに怒るんです? 紫陽羅兄さん、くくっ、……はぁーあ、おかしい。……ぐぇっ」
紫陽羅は容赦なく沙琉婆の腹を膝で蹴る。骨の折れる軽い音がして、安漸美と一緒にびくついてしまう。とっさに前へ出ようとした安漸美を、後ろから顔を覗かせた颯希が止めた。颯希は凪いだ目で静かに首を振っている。沙琉婆が床で喘ぐのを、紫陽羅は冷たく見下ろし言った。
「自分が何をしたか、わかっているのか?」
いつも慇懃で冷ややかな紫陽羅は、本物の殺意を放っていた。怒り心頭の紫陽羅より、けれど沙琉婆のほうが不気味だった。沙琉婆は肩をふるわせ、笑い続けているのだ。食いしばる歯の間から、場にそぐわない笑い声で言う。
「何がいけないんです。香漸様と交わったくらいで。たったそれだけのことで、何がいけないって言うんですか」
「本気で言っているのか? お前は──」
紫陽羅はすこし語調をゆるめる。どう見ても沙琉婆は正気ではない。ぼんやりと曇る瞳を宙に投げ、ずっと笑っているのだ。沙琉婆の乾いた笑いは止まない。
「ねぇ、教えてくださいよ。人と葉名が一緒になって、それの何がいけないんです。僕は……僕はもっと、酷いことをしたのに……僕は……梓水様を、見殺しにしたのにっ」
笑い声は嗚咽に変わっていく。紫陽羅は呆れた顔だった。
「あれはお前のせいではないと、何度も」
「僕が殺したんだ!」
安漸美の肩が震える。沙琉婆は感情が決壊したようだった。
「あのとき、僕なら助けられた……でも殺した。見殺しにっ……す、日紅が死ねば、……梓水様が、誰かの者になるぐらいなら、いっそって。そう思って……だから、っ……助けなかった。だから……!」
紫陽羅はちらりと安漸美を見るが、彼女はうつむいている。春の惨劇の夜、夏の者たちは散り散りになっていた。アオジが夏の刀を手にしたとき、近くにいたのは安漸美と沙琉婆のふたりだけだった。安漸美はアオジを見ても動かなかったという。そう本人が話していた。彼女は水簾の妹の死を望み、静観を選んだ。そして今、沙琉婆も同じことをしたとその口で告げたのだ。
「愚かしい。あなたたちは本当に最低です」
紫陽羅の冷たい声に反応したのは安漸美だった。
「……紫陽羅にはわからないだろうね」
「なんですって?」
「あの水簾の葉名だからさ。どっか欠けちまってるんだろう。人らしさとか、心の機微とかがさ」
「私は人ではない」
「何が違うっていうんだい?」
人と葉名の差はどこにあるのか。安漸美はじっと紫陽羅を睨んでいる。言葉につまった紫陽羅は、答えを出すことを恐れるように視線をそらした。
「……この件は私の身にあまります。特に香漸様の件は……それ相応の処分を覚悟しなさい」
紫陽羅は深々と息を吸い、けれど吐き出す気力もないようで、疲弊した顔になっている。ため息をのみ、紫陽羅が音もなく部屋を出て行くと、茫然としている沙琉婆のそばへ安漸美が近づいていった。
「ね、行こ」
颯希に袖を引っ張られ、アオジは静かにその場を去った。
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「どうして香漸となんか……分かってただろ?」
部屋の暗がりに安漸美は腰を下ろした。沙琉婆は憔悴している。なにかのきっかけで心に留めていたものがあふれ、取り繕うことができなくなったのだろう。思えば、沙琉婆は今までよくやってきた。アオジの世話もそうだし、秋との文のやりとりも、水簾の話し相手もよくこなした。安漸美が「いやだ」と突っぱねるようなことも、沙琉婆はぐっとこらえてきたのだ。
「香漸のこと、拒みきれなかったのかい?」
「もうどうでもいいよ」
溢れた水滴をすこしずつ垂らすように、沙琉婆は言葉を零していく。
「どうして、僕じゃ駄目だったんだろうって……僕が葉名じゃなくて、もし人だったら? あのとき、梓水様を助けていたかもしれないって。そんなことばかり……春のあいつを見るたびに……ずっと、考えてしまう」
「うん」
安漸美は心底同意した。アオジの顔を見るたびに、つきつけられるのは答えのない「どうして」だ。それが沙琉婆を毎日圧迫し、押し潰していったのだろう。
「水簾様が、夜叉姫様と結婚するって。今日」
はっと吐き出した息に、笑い泣きのような震えが混じっている。
「そっくりなんだ。……あの人は、……夜叉姫様は、梓水様にそっくりなんだ。双子みたいに。生き写しで。僕は、……彼女をみるたびに思い出して……うれしくて悲しくて、幸せだった……それなのに、また水簾様が……」
「そっくり? 夜叉姫が、梓水と似てるって?」
水簾の妹が双子だったという話は聞かない。生き写しで似ているというのも変な話だ。沙琉婆は感情が崩れたようになっていて、安漸美の問いには答えない。
「いつもそうだ。いつもいつも、どうして僕じゃだめなんだ。なんで、僕は葉名に産まれて、あの人は、人に産まれて……僕のものに、ならないのに……っ」
「だから香漸と寝たってのか?」
「だって、おかしいだろ!? 梓水様を殺したことは責められないのに、そんなことが駄目だなんて……紫陽羅兄さんは慰めてくれたよ。『お前のせいじゃない。そんなことは気にするな』って。そんなこと? 梓水様が死んだことは、そんなこと……? それなのに、僕は葉名で、あの人は……」
「もういいよ」
頬の涙を拭ってやると、沙琉婆は茫然と見上げてくる。
「どうすればよかったんだろう。僕は、どこで間違えたのかな……?」
産まれたときだろう。安漸美はそうは思ったが、口にしなかった。沙琉婆は香漸とともに処分される。清廉を重んじる夏の家は、法を犯した者に容赦ない。けれどこれでいいのか。沙琉婆が死んで、香漸も死んで、水簾は夜叉姫と結婚する──そんな未来に自分はどうすればいい?
「お前は何も悪くない」
そして自分もけして悪くはないのだ。胸元に隠した紫のまじない袋を、安漸美は握りしめる。
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