腐蝕

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 夜、安漸美は谷あいを抜け、森の中を歩いていた。

 踏みしめる地面は腐葉土で柔らかく、進むたびに地へ足が埋まる。ぐじゅりと、踏むたびに赤黒い液体が染み出してくる。注意深く小さな川沿いを進んでいく。川はひとっ跳びで越えられる幅だが、けしてあちら側へ踏み入ってはならないことは、よくわかっていた。水結界に守られているのはこちら側だけで、川向こうでは夜行性の舐目苦自が、昼よりも活発に動き回っているからだ。結界が万全に機能しているうちは、ここは安全なはずだ。大丈夫と言い聞かせなければならない危険な森を、こんな夜更けに進むのには理由があった。


 広場へ着くと、川向こうですでに男が待っていた。軽く会釈してきた相手は秋の使者・水分神みくまりだ。闇に溶けそうな墨染の着物を今日もまとっている。背に大太刀を結わえた相手は上背があり、見るからに屈強そうだ。顔は翁の面で覆われ、歳はわからない。発される声が意外と若く聞こえることを、すでに安漸美は知っていた。害意のなさそうな響きで水分神は優しく話す。


「今晩は。よい密談日和で」

「ふん。会うのはこれで最後にしたいね」

「それは残念ですね。水簾様からのお便りは?」

「ないよ。あいにく修羅鬼の話も出なかった」

「残念です」


 そう繰り返す男を、白々しい思いで安漸美は睨んだ。水分神の言葉はすべて薄っぺらい。感情がこもらず、どこまでも信用がならない。

 水分神は、秋の長女・修羅鬼からの使いだ。秋の領地は二分され、それぞれを直系の姉妹が治めている。姉の修羅鬼と、妹の夜叉姫。その双方から水簾は縁談をもちかけられている。


「そっちの姫様は、妹の夜叉姫を邪魔したいだけだろ? 身内の喧嘩にうちの当主を巻きこまないでほしいね」

「とんでもない。水簾様とのご縁は、私たちにとって莫大な益となります。修羅鬼様も婚姻の話には乗り気ですよ。それにもし──水簾様があの夜叉姫とご婚約となれば、これまでの私たちの同盟関係も破断、正式に敵同士となってしまう……そのようなことは避けたいのです」

「面倒なやつらだ」


 思ったことをそのまま口にしても、水分神は気分を害した風もない。安漸美は舌打ちしたい気分だった。だからやめろと水簾に言ったのだ。秋の姉妹の不仲は有名だった。領地で何が起きているのかは知らないが、そのような内紛を抱える相手と結婚なんて正気の沙汰ではない。妹の梓水を失ってからの水簾は、来るもの拒まずでやけくそになっている。危ないと思っていたところへ、狙いすましたように秋の妹、夜叉姫から文が送られてきたのだ。あろうことか水簾はそれに返事を書き、あまつさえ文通を始めてしまった。夜叉姫との文のやりとりを任された沙琉婆が、いつも辟易とした顔で秋との領地境へ向かうのを哀れに見ていたら、今度は姉の修羅鬼からも文が送られてきた。そこで文通の使者としてたてられたのが、安漸美だった。


 安漸美は、この縁談をだめにしてやろうと思っていた。水分神へ辛辣にあたり、あちらから手を引かせようともしたが、のらりくらりとかわされるばかりだった。そのうちに安漸美も気がつく──姉の修羅鬼には、どうやら水簾と結婚する気がない。ただ敵対する妹の邪魔をしたいだけで、水簾を取りこもうとしているだけだと。うまくないのは、妹の夜叉姫が水簾のことを心底好いた風で、水簾がそれに応えるだろうということだ。あの生真面目な沙琉婆が、あちらの仲立ちを任されているのも難点だった。沙琉婆のことだから、ただ言われたとおりに仕事をこなしているのだろう。


「そういえば、ひとつお聞きしたいことが」


 水分神が今思いついたとわざとらしく切り出した。


「私どもの領地の南に一部、水結界が張られていました。ちょうど夜叉姫のいるあたりに……あれはいったい、どういう了見で?」


 きた。安漸美は内心ひやひやしたが、悟られないように顔に力をこめる。


「夜叉姫がやったことだよ。私らは関係ない」

「ふうむ。けれどあれは夏の水結界。それを夜叉姫が、かってに独学で編み出したとは思えませんが」

「さあ。水簾とは文のやり取りがあるから、やり方を聞いたんだろ。とにかくうちは関係ない」


 まずい風向きに自然と早口になってしまう。水分神は笑っている。


「いえ、責めているわけではないのです。ただ私どもも困っておりまして。秋の領地にあのような囲いをされては、ろくに移動もできません。私どもはなにぶん、水結界をこえられませんので」


 その言葉につられて、つい水分神の足元に視線を落としてしまう。水分神は小川の向こう側に、結界の外に立っている。


「お気づきかと思いますが、私どもは不浄の身です。あの舐目苦自と同じ。あなた方からすれば蔑まれる存在でしょう。私だってこんななりですし」


 水分神がどんななりかは、翁の面覆いと長い着物のせいでわからない。安漸美は黙って聞いていた。


「しかし、秋の地に水結界を巡らせておいて、知らぬ存ぜぬは通りませんよ。あなたたちは片方の言い分だけを聞いて、もう片方の言い分は無視するのですか?」

「……何が言いたい?」


 秋の地に張られた水結界を解けと言われても、無理な話だった。水結界について文で伝えたのは水簾だが、実際に結界を張ったのは秋の妹・夜叉姫だ。夜叉姫は自らを守るため、結界を張ったに違いない。もとはといえば姉の修羅鬼に殺されそうになったから、妹の夜叉姫は夏との境まで逃げてきたのだ。水簾との縁談だって、夏の地へ逃げるための方便かもしれない。水分神は諭すような口調になっている。


「私どもの望みは夜叉姫の抹殺です。それ以外は望みませんし、それさえできるなら、水簾様との縁談は白紙にしても構わないと思っております」

「言っとくけど、夜叉姫を殺せっていわれても無理だよ」

「ええ、もちろん。しかしあなた方にとっても、この状況はよろしくないでしょう。夜叉姫さえいなければ、これまで通りに我々はつかず離れず、良好な盟友関係でいられるのに」


 夜叉姫さえいなければ──そう水分神は言う。その考えには同意だが、安漸美にできることはない。


「そこで、ご相談なのですが」


 水分神はもったいぶった手つきで紫の小袋を取り出した。それを自然な動作でそっと投げてよこす。つい受け取ってしまった小袋には、金刺繍で文様が刻まれていた。明らかになんらかのまじないが施されている。受け取ったことをはやくも後悔していると、水分神が天気の話でもするみたいに言った。


「それを水鏡のある場所へ投げ入れてください。そうすれば、すべての水結界がとけ、私たちは夜叉姫を殺せます」


 ぎょっとして水分神を見ると「ご心配なく」と手をひらつかせる。森の奥から音がして、三体の舐目苦自が現れた。真っ白い芋虫の体を間近に見てしまい、思わず悲鳴が出そうになる。皮膚から何十もの人の手足が無造作に生えていた。人の目や口、鼻、といった部位が模様のようにびっしりつき、瞬いたり舌を出したりと、せわしなく動いている。水分神の後ろにやってきた一体は、驚くべきことに、その手になつくような仕草をみせた。


「私は舐目苦自を操れるんです。その袋を使って、夏の水結界をすべて解いてください。舐目苦自たちは、夏の領地にいっさい入らせませんから」


 そんな言葉、とても信じられない。畳みかけるように水分神は言う。


「考えてもみてください。あなたがたは大切なお取引相手です。そちらから切られてしまえば、私どもは輝光石が売れず、食いっぱぐれてしまいます。私たちとあなたがたは一連托生、邪魔者は夜叉姫だけです」


 水分神はあろうことか、舐目苦自の上に飛び移った。馬でも扱うように、舐目苦自を大人しくしてみせる。安漸美は安全な水結界の中にいても身がすくむのに、水分神は吐息で笑んでいる。


「時機はお任せします。お互いの平安のために」


 おぞましい音とともに姿は森奥に去り、安漸美の手には紫の小袋が残された。


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