水鏡

 階段を上りきると、冷たい風が吹いていた。汗だくのアオジは心地よく目を細める。頂上に立つと途端に視界がひらけた。空をずいぶんと近くに感じる。足元は細かな溝がいくつも刻まれた灰色の岩で、溝の中を清水が音もなく流れている。いく筋もある小さな清流は澄み、魚や虫の影は見当たらない──ここには生き物の気配がまったくないのだ。遠くに見える森以外には、草一本生えていない。


「こっちだ」


 不思議と音のしない、死後の世界のような台地を安漸美は大股に歩いていく。小さな湧水池の前で彼女は足を止める。灰色の台地にぽっかりと丸穴が開き、大人が両腕をのばしたくらいの大きさの池があった。こんこんと泉が湧き出している。かなりの深さで、澄んだ水は奥のほうで影を帯びていた。その中心に、蒼く輝く丸い鏡が固定されている。


「これが、夏の──水鏡?」

「ああ。光ってるね……もう満月なのか」


 水に沈む神鏡は、空をそのまま映しとった青さで光っていた。水面が蒼く照り、暗い池の淵に清浄な光を投げかけている。安漸美は池の横にあった柄杓を手に取ると、アオジに押しつけた。


「ここの水と一緒に種を飲むんだよ。葉名を作るには心臓を贄とする。それだけを念じていればいい」

「それだけ……? 祝詞や、他の道具はいらないんですか?」

「必要ない。間違えるなよ。心臓だ」


 ただそれだけを考えていろと言われ、受け取った柄杓を前に躊躇する。本当にもう一度、葉名を作れる──葉名を作ったらどうなる?


「……どうして僕に、葉名を作っていいと言ったんだろう」


 ぽつりと漏れたのは、ひどく今さらな疑問だった。水簾はなぜ葉名を作れと言ったのか。春の当主・月水に種を与えられたとき、差し出されたのは一見、親切心にみえた。けれど月水は葉名の数を増やし、主上への重しとするためにアオジを利用しようとしただけだった。水簾が同じことをするとは思えないが、裏に何かあるのではとつい勘ぐってしまう。安漸美は「なにをいまさら」とため息をついている。


「そんなの、死にたいからに決まってるだろ」

「──?」

「お前が葉名を作れば、自分を殺してくれるかもしれないと思ってんのさ、あの馬鹿は。ここに留めおいてるのもそうだ」

「どうして……僕が?」


 安漸美は冷たい目になる。


「下手な芝居はよしな。葉名を産むってのは力を持つことだ。お前、私たちを恨んでるだろ?」


 とっさに違うとは言えなかった。恨んでいないといえば嘘になる。けれど葉名を作って、それで水簾に復讐するなんてことは考えもしなかった。その考えが浮かばなかったことに、アオジは驚いた。胸中にあるのは怒りや恨みより、はるかにまさる疲弊だ。今さら誰かを殺したところで、死んだ人間がよみがえるわけでもない。ましてや、自分の手ではなく葉名に人を殺させるなんて──そんなことは絶対にしたくない。


「勘違いするなよ。すこしでもおかしな真似をしたら、私が斬る。水簾がどうであれ、私たちがいる限り問題ない。そう思ったからここへ連れてきたんだ」


 安漸美は腰の黒塗りの刀を示してくる。指で少しはじくようにして抜かれた刃は、うす青色に輝いている。


「もういいだろ、早く作っちまいな。それともなにかい、私がいない方がいいってんなら……」


 去りかけた安漸美を慌てて引きとめた。


「ひとつだけ。彼が、水簾が死にたいのは……なぜです?」


 振り返った安漸美の長い黒髪が風に流されていく。その顔は驚くほど優しいものだった。


「決まってる。妹の梓水が殺されたからだ──お前のせいで。それに私と、沙琉婆のせいで」



 ж


 

 夕暮れどき、アオジは階段の途中で立ち止まっていた。見晴らしのよいここからは夏の領地が一望できる。水の張られたいくつもの水田は光の加減で銀色に輝き、空は夕陽色に染まっている。心地よい風に目を細めると、眼下の階段を登ってくる人影を見つけた。


「よう」


 にかりと夕陽の影で笑うのは水簾だ。青の着流しに下駄という格好で、汗ひとつかかずに登ってきたらしい。水簾は不思議そうな顔になる。


「あれ? お前の葉名は」

「……作りませんでした」

「なんで?」


 露骨に無念そうな水簾は「まあいいさ」と笑った。


「無理にっていうのもな。気が向いたら作ればいい」


 からりとした彼の笑みから、アオジは自然と顔をそらしていた。安漸美から話を聞いた今となっては、水簾の明るさを見ていられない。



 安漸美はこう言っていた。


 ──水簾は元々、あんな風に笑わなかった。無口で不愛想、昔は紫陽羅と同じくらいつんけんしてたんだ。


 それが明るく笑顔をふりまくようになったのは、その妹・梓水が死んでからだという。まるで人が変わったように、水簾は痛々しく笑うようになった。


 ──断言できる。水簾と梓水は恋仲だった。横で見てたから、私にはわかる。だから梓水が死んで、あの人には生きる意味がなくなっちまった。


 それでも夏の当主として、水簾は責務を果たしていくしかなかった。領地を守り、自ら死ぬこともできずに心を殺し、明るく振舞ってきた。


 ──勘違いするなよ。べつにお前が梓水を殺したことを責めてるわけじゃない。むしろ感謝しているくらいさ……というか、私も同罪だね。


 うっすら笑う安漸美は懺悔するような声だった。


 ──あの夜、お前が日紅を、……梓水の葉名を殺すのを、私と沙琉婆は止めなかった。ただ横で見ていただけなんだから。



 春が襲われたとき、奪った刀でアオジが日紅を刺すのを、その場にいた夏のふたりはただ見守っていたという。


 ──日紅には悪いけど、死ねばいいと思ったんだ。梓水を殺してやりたかった。沙琉婆はどうだか知らないけど、少なくとも私はそう思った。だから殺させたんだよ。そういう意味では感謝してる。責任を感じる必要なんて、これっぽっちもないんだ。


 安漸美は自虐的な笑みを浮かべていた。


 ──水簾がああなったのは、私のせいでもある。けれどこれでよかったんだ。梓水と水簾が結ばれるなんて、許さない。これからも似たことがあれば同じことをするよ。


 どうして、とは聞くまでもなかった。安漸美の顔を見ればわかる。彼女は水簾のことが好きなのだ。けれど、葉名と人とは結ばれない。




 階段の途中で足を止めると、水簾は不思議そうにしていた。


「どうした?」

「葉名と人は、どうして恋仲になれないんです?」

「なんだ。誰ぞ気に入った奴でもいたか?」

「違います。僕はただ」


 ただ、何だというのだろう。春にいたときには、こんなこと考えたこともなかった。


「そういう決まりだからな。先祖代々、葉名と人との恋愛は御法度だ。まあ、俺はいいとは思うんだが」


 遠くを見るその内心は読みとれない。水簾は橙色に染まる階段を一緒に降りていく。


「そういや、安漸美はどうした?」

「先に帰りましたよ。僕が葉名を作るのを悩んだから……」

「ふうん。最近あいつ、なんか変だよなぁ」


 水簾は本当に安漸美の心に気づかないのだろうか。水簾はとんでもなく鈍感だ。それをなんともいえずもどかしく思うが、かけるべき言葉をアオジはもたなかった。

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