ぬかるみ
「よう。休めたか?」
水簾はカラリとしていた。まるで昨日のことが嘘みたいな笑みで、こちらの方が困惑してしまう。横に控える紫陽羅のほうがまだ気まずそうで、人間味があった。屋敷の下、川のほとりで水簾は待っていた。翡翠色の澄みきった流れが白い河原石の間を流れている。一緒についてきた沙琉婆に、水簾は白い手紙を渡した。
「これ、また頼む」
「はい」
頷いた沙琉婆の姿が見えなくなると、水簾は嘆息した。
「悪かったな、呼び出して。お前がこれからどうする気なのか、昨日は聞きそびれたから」
「これから……?」
未来があるという考えがしっくりこなかった。住んでいた春の地にもう家族はいない。続くと疑いもしなかった平穏な日常は崩れてしまっていた。愛しい者も守るべき存在も、育ってきた故郷すらもうないのに、水簾は構わず聞いてくる。
「行きたい場所や、やりたいことはあるか?」
横で話を聞いていた紫陽羅が盛大に顔をしかめている。
「彼を呼び出したのは、そのために?」
「ああ。なんだよ?」
「あなたが無神経なのはわかります。けれど昨日の今日で……彼の心境もすこしは気遣ってあげてもよいのでは」
「だから、こうして聞いてんだろ」
「……悪気はないのです」
紫陽羅はすまなさそうに謝ってきた。そんな風に謝られても対応に困る。水簾がじっと答えを待っているので、仕方なく答えた。
「……これからのことはまだ、考えていません」
というより、水簾は自分をどうするつもりなのだろう。ここを離れたいと言えば自由にしてくれるのか?
「そっか。なら、しばらく留まればいい。春とは違う葉名のありかたを見るのもいいだろう。俺としても、お前がここにいてくれたほうがいい」
紫陽羅が水簾を睨みつけている。紫陽羅の口から小言が飛び出しそうになったとき、荒々しい足音で安漸美がやってきた。
「水簾! どういうつもりだ!? 秋に水結界が」
「お、ちょうどいいところに来たな」
「質問に答えな!」
腰まである黒髪を振り乱し、安漸美は鬼の形相だった。ここまで走ってきたらしい。握りしめたぐしゃぐしゃの手紙を、勢いよく紫陽羅へ押しつける。
「まったく」
紫陽羅が手紙のしわを丁寧に伸ばす横で、水簾はからりと笑う。
「なにを怒ってる? あれで
「お、お前、じゃあ本当に、秋の夜叉姫と……?
「まだ考えてるが、そちらとも円満な形で話を進めたい」
「なっ、馬鹿か!? できるわけないだろ!」
拳が出そうな勢いの安漸美を押しとどめたのは、どこまでも冷静な紫陽羅だ。
「気持ちはわかりますが、内々の話はあとにしては……水簾様、安漸美に用があったのでしょう?」
「そうだった。こいつを水鏡のところまで連れてって、葉名の作り方を教えてやれ」
文句を言いかけた安漸美は、ぽかんとした顔になった。
「なにを言ってる」
「沙琉婆から聞いたんだ。こいつが種を持ってるって。持ってるんだろ? 見せてくれないか」
邪気なく差し出された手に、アオジは一瞬ひるんだ。水簾の顔には好奇心しかみえないが、種を預けてしまうことには抵抗がある。だから小袋を取り出して、中身を自分の手のひらに乗せてみせた。水簾はそのまま近づきもせず眺めている。
「ふうん、これが春の種か。どう思う?」
紫陽羅が水簾の横で種を嫌そうに、すがめた目で見ている。
「普通の種に見えますね。血を吸っていますが」
ちらりと確認するように見られ、アオジは目をそらした。吸っているのはアオジ自身の血だ。
「種自体に仕掛けはないようです。使っても問題はないでしょう」
「だそうだ。だからあとはお前しだいだな」
この種を使って葉名を作ってもいいと水簾は言う。
「ただし作るなら正しいやり方で。それを安漸美に教えてもらえよ」
「お前、本気か?」
安漸美が食ってかかったが、水簾は気にする風もない。
「別にいいだろ、なんの問題もない」
安漸美はぐっと言葉をのみ、挑むようにアオジに向き直る。
「お前。名前は?」
「──アオジ」
ぽつりと言葉にのせた名は、誰か他人のもののように感じられた。今朝、夢で陽菜に呼ばれたときの、あの響きがまだ耳にこびりついている。愛しむように音にされた言葉の形。あの響きをまた、葉名を作れば聞くことができるだろうか。ほのかな期待が掌中の袋と針のような種を温めた。
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安漸美は早足で振り返らずに進んでいってしまう。河原へ降りると、足元はごろつく丸い石で不安定になる。進むだけでもやっとのアオジは、置いていかれまいと必死だった。ようやく後ろが遅れていることに気づき、安漸美は離れた場所で立ち止まる。追いつくと、安漸美はまったく別の方向を見ていた。
「面倒な」
そう言って、苛々と睨んでいるのは河原にいる男女だ。茶髪の愛らしい少女が、少年の腰に手を回している。少年の顔は背になり見えなかったが、背格好からそれが沙琉婆だとわかった。少女に抱きつかれ、沙琉婆はたたらを踏むようによろける。その顔は心底弱り果てている。こちらに気づくと、救いを求めるような視線を送ってくる。心底嫌そうに安漸美は近づいていった。
「沙琉婆。水簾の用があっただろ? 急ぎな──
香漸と呼ばれた少女は、長くやわらかな茶髪をなびかせ、丸く大きな瞳を瞬かせた。あどけない仕草はどこか水簾の無邪気さに通じるところがある。
「あら? ご機嫌うるわしう。沙琉婆、お使いを頼まれてたの?」
「はい……」
「まあ、言ってくれればよかったのに。ごめんなさいね」
少女は口では謝りながらも、沙琉婆に抱きついたままで離そうとしない。頬をすり寄せ、満足そうに瞳を細めている。安漸美が苛々と舌打ち、沙琉婆が「すみません、本当にそろそろ」と押し返したところで、ようやく香漸は納得したようだった。
「しばらく会えなかったから、さみしかったの。今夜は帰って来られる?」
「できるだけ早く帰るつもりです。そちらへも顔を出しますよ」
「顔を出すなんて……泊まっていけるように私が」
「香漸様」
剣呑な声で口を挟んだのは安漸美だ。香漸はゆるやかに笑っている。
「冗談よ。気をつけて」
いってらっしゃいと手を振る香漸から離れ、声が聞こえなくなったところで、沙琉婆は重く息をついた。
「すまない、助かった」
「お前、いい加減に身のふり方考えたほうがいいぜ」
安漸美は呆れた様子だが、アオジにはどういうことかわからない。あの香漸という少女は沙琉婆の恋人だろうか。目が合うと、沙琉婆は嫌そうな顔をする。
「……やめろ、そんな目で見るな。香漸様とはそんな仲じゃない」
安漸美はおかしそうににやついている。
「はたからはそう見えるってこった。親に色目を使われるのも大変だねぇ」
「だから、そんなんじゃ」
「お前にそのつもりがなくても、あっちはそんな感じだ。はっきり言ってやんなよ」
黙りこんだ沙琉婆はそのまま下流へ──谷あいを出る方角へと歩いていった。機嫌をたいそう損ねたらしい。
「大変だねぇ」
笑う安漸美はそれを見送り、教えてくれた。
「香漸は水簾の従妹なのさ。沙琉婆にとっては産みの親だが、香漸にとってはそれだけじゃない。沙琉婆はあれでけっこうもてるからねぇ」
「それは──自身が産み出した葉名に、まさか人が恋愛感情をもったと?」
「春の家にだってあったろ? あんなに綺麗な葉名ばかりいたんだから」
そんなことは──なかったはずだ。すくなくとも目につくところで、そうした気配を感じたことはなかった。けれど今となっては、それも絶対になかったとは言い切れない。葉名とは神聖なものだと教えられてきた。主上から種をもらうための式神であり、製法は口伝のみ、書に記すこともはばかられる神秘的な存在だった。その葉名に手を出し、恋人のように扱うなんて──夏の家ではよくある話なのだろうか。安漸美はすでに左の絶壁へ向かいかけている。
「早くしろ。陽が暮れちまう」
天にも届きそうな急こう配の階段がずっと続いていた。途中で休めそうな場所はない。安漸美は嫣然と笑う。
「どうする。やめとくか?」
「行きます」
即答すると嫌な顔をされたが、それでも安漸美は段を登っていく。
「途中で無理だと思ったら自力で引き返しな。私はおぶったりしないからね」
安漸美は健脚で、あっという間に階段を上がっていく。遅れないように十分も登れば、早くも息切れしてしまう。膝が軋むように痛み、何度も後ろへひっくり返りそうになる。見下ろすと、進んだのはようやく三分の一程度だ。
「もうやめときなよ。病み上がりなんだろ?」
近くまで降りてきた安漸美がそのまま下まで降りていってしまいそうで、アオジは慌てた。
「さっきの話は……」
「ん?」
「葉名と人が、恋人同士になるって。そんなことが、よくあるんですか?」
沙琉婆とその産みの親、香漸のことだ。興味があったわけではないが、安漸美の注意を引いている間に一段でも多く登ってしまいたかった。安漸美は意外にも思うところがあったのか、逡巡している。
「いや、表立ってはないね。葉名と人との交わりは固く禁じられている。だからそれに近い状態になると罰されるよ。そういう話は何度かあった」
葉名には見目麗しい者が多い。罰されると知っても葉名に恋する人間や、人間に恋する葉名は意外と多いらしい。
「でも大体の奴はわかってるよ。内心はどうあれ、みんなやっていいことと悪いことの区別はついてる。バレたら殺されるから、そこまでの危険をおかす者も少ないし」
禁を破れば、葉名と人の両方が罰される。つまり葉名の術者と、人に産み出された別の葉名もまでもが巻き添えになりかねない。その罰はかなり厳しいものに思えた。夏では葉名の贄に心臓を使っているのだ。葉名と術者は一心同体、思考や性格はまったく別なのに、負う責任は一緒だなんて。安漸美は顔をしかめている。
「だからさっきのは、香漸が異常なんだ。沙琉婆にその気はないんだし、はっきり言ってやればいいのに」
葉名は自分を産み出した人間に忠誠を誓う。春の家ほどではないにしても、自らをつくった人間に多少なりとも情がわくのは仕方ないだろう。
「あなたは、そういうことはないんですか?」
「あぁ?」
ぎろりと睨まれ、思わず身を引く。階段からつき落とされそうだ。
「あるわけないだろそんなこと。私をつくった
けれど安漸美は、苦悩が入り交じった表情をしていた。彼女にも人間の想い人がいるのではないか。なんとなく、そうアオジは思った。
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