怨嗟

 いつの間にか眠っていたらしい。遠くから誰かの声が聞こえた気がした。頭のなかで反響し、波紋のように意識を揺らし、呼び起こしてくる。その声に、なぜか喋れない陽菜のことを思い出した。陽菜の声なんて聴いたこともないのに。陽菜は失敗作だった。割れ種で葉名を作ったせいで、まともなひと言すら出せなかった。陽菜は──。


 意識をはっきりさせようとすればするほど、かすかな声は遠くなる。耳をすませ、アオジは思考の海に沈んでいく。夢の中の思考の海は濃い群青色で、どこまでも深い。自分は陽菜を作った。輝夜の役に立ちたくて、認められたことがうれしくて。これで一人前になれると思い、嬉々として種を飲みこんだ。それなのに、陽菜は──……。


 ──もう一度。もう一体、陽菜とそっくりな葉名を作ればいい。


 暗闇の中で月水が、そっと微笑み立っている。手のひらにのせた細長い蒲公英の種が差し出される。もう一度。月水へ一歩近づくと、月水の手にある種が膨らんだ。種はぱかりと割れ、人の目がその中から覗く。


「っ!」


 種はあっという間に大きくなり、鮮やかな真紅の芽を出すと月水の手や腕、体に蔦を伸ばした。四肢に巻きつき、強く締め上げている。月水の体がへこみ、骨が軋んで血が滴った。


「あ……」


 後ずさるアオジの前で苦しんでいたのは、いつの間にか月水から水簾の姿に変わっていた。その首が折れ、人形のように身がくずれる。ありえない位置に四肢と腕が曲がっている。あたりにどす黒い血が広がり、ぬめつく地に足をとられそうになる。


 そのとき、ふんわりした羽衣をまとった陽菜が、倒れた水簾のそばへやってきた。いつもの優しい微笑みで、滴る血を手にすくい、舐めている。愛しいものを呼ぶように、その口角が上がり、愛らしい声がこぼれた。優しい笑顔とは裏腹に、その瞳に凶悪な殺意がのぞく。


「アオジ」


 ────こいつを殺す、殺してやる、殺してやる、殺してやる!────



 がんと、殴られたような衝撃で目が醒めた。全身が汗に濡れている。夢だ。遠くから鳥の声がした。部屋に窓はないが、外の気配で朝になっていることがわかる。どうやらずいぶんと寝過ごしたらしい。夢の感触を引きずっていると、横から白布が差し出された。部屋の中に誰かがいる。飛び起きると、憮然とした声が聞こえた。


「なんだ、起こしにきてやったのに。ほら」


 使えと白布を差し出していたのは沙琉婆だ。朝食の膳を運んできてくれたらしい。いま来たばかりなのだろう。部屋の戸はまだ開いていた。受け取った布で顔を拭うと、沙琉婆はさりげない調子で尋ねてきた。


「ずいぶんうなされてたな。水簾様から話を聞いたのか?」


 アオジは昨日の夜のことを思い出した。なぜ春を襲ったのか。その理由を水簾は教えてくれた。葉名を大量に作り、春が主上を引き止めていたこと。その結果、他の家が種子不足になったこと。


「……水簾の家族は、舐目苦自に殺されたって」


 沙琉婆はぎゅっと眉を寄せる。


「そうだ。五年前のことだ。主上は春に行ったきりで、各地を巡らなくなってしまった。それから各地で種子不足の時が続いたんだ」


 夏では、種子は水結界に使われる。張り巡らせた小川の要所に種子を配し、森からの舐目苦自を防ぐのだという。おかげで夏の領民は舐目苦自から守られているが、種子不足で結界が手薄になった時期があったそうだ。


「舐目苦自が馬鹿みたいに入ってきて、昼も夜もなく討伐に追われた。民も大分喰われたよ。僕の仲間も──水簾様のお身内の多くは、その時に亡くなったんだ」


 疲弊した夏の家はついに行動に出た。


「結果、僕らが春をああすることになったけど、あれは他の領地との総意でもあったんだ。僕たちだけが悪いわけじゃ……」


 沙琉婆の声はしりすぼみになっていく。

水簾は春へ赴く前にまず、冬から種子を借りうけたという。そして秋から、葉名斬りや舐目苦自狩りに使う輝光石をもらった。その代わり、武力を提供することになったのだと。領民を守るため、他家の代行者となったのだ。


「春から主上が離れたから、種子もこれから手に入るだろうし。僕たちの水鏡が輝く日も近い──ただ、失ったものはどうしようもない。水簾様は家督を継がれ、今こそ立派だが、すこし前までは見ていられなかったんだ……」


 水簾はふた親と三人の兄、ふたりの弟、遠戚の多くを一年前に失った。当主となることを余儀なくされ、それでもなんとかこらえてきたのは、妹の梓水がいたからだ。その名を聞いてアオジは胃が縮みそうになる。この手で殺した葉名の術者。沙琉婆はアオジの包帯をとりかえることにしたらしい。左側に移動し、手際よく古い布を剥がしていく。


梓水しすい様はよくできたお人だった。ぼろぼろの水簾様を支えられる唯一のお方でもあった。ふたりは仲が良かったし、冗談で結婚するとかいって。たぶん、本気で水簾様は……」


 薬草をつめた包帯を巻きなおし、器用に結びつけると沙琉場は立ち上がる。食事の膳を運んできた。


「……さっさと食え。お前を連れてくるよう、水簾様に言われてるんだ」


 無理やりに箸を渡されて、アオジはぽつりと零していた。


「どうして、生かしておくんだろう」


 水簾は優しい。優しすぎるほどだ。実の妹を殺されたのに、その仇をこうして賓客のように丁重に生かしている。前に理由を尋ねたら、彼は「ずるいから」と言っていた。その意味もよくわからない。もし逆の立場なら、真っ先にアオジは仇となった人間を殺しただろう。理性をかなぐり捨て、憎しみのままに暴力をふるったはずだ。


「まあ……あの人が何を考えているかなんて、誰にもわからないからな」


 沙琉婆は古い包帯や薬草箱を手早く片付けている。声には慰めの響きがあった。


「もう起きてしまったことは仕方がない。水簾様のお身内は舐目苦自に殺された。梓水様に関しては……あのとき一緒にいた僕らにも、お守りできなかった責がある」


 沙琉婆はさっさと背を向け、外へ出て行ってしまう。昨日の今日で水簾に会うのは憂鬱だったが、より気が進まないのはあちらの方だろう。そう考えて、ため息とともに箸を取った。


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