後会のとき
沙琉婆は大丈夫だろうか。前をいく颯希が、踵だけで器用に振り返ってくる。
「あんな面倒ごと、放っておけばいいんだよ」
「冷たいんだな」
「冷たい? じゃあ、何かできることある?」
「それは──」
「私にはない。なんにも。だから放っておけばいい。大丈夫、なるようになるから」
「それは、そうかもしれないけどさ……」
どこへ行くともなしに颯希の後をついて歩くと、屋敷の外、川のほとりへ出ていた。美しい緑の清流を眺めていたときだ。下流から水簾が走ってくるのがみえた。これほど焦った水簾の顔を見たことがない。
「颯希!」
「どうしたの?」
悲鳴が聞こえた。巨大な物が倒れる音や、木が大きく裂ける音がする。
「なに、何なの?」
颯希は無意識に腰の黒鞘に手をかけている。
「舐目苦自だ。水結界が崩れて──」
「みんなは?」
「下に紫陽羅が」
「わかった」
聞き終わる前に颯希は下流へ駆けていた。高下駄を履いているのに素早く、その背はあっという間に見えなくなる。水簾は荒い息を整えている。
「お前も避難しろ。いずれここにも来る」
「で、でも──」
「来い」
水簾は岸壁の外階段を駆け上がっていく。異変に気づいた夏の葉名たちが慌ただしく階段を降りてきて、水簾に何事か確かめ、下流へ駆けて行く。下流のほうを振り返り、アオジは立ちすくんだ。谷間から見える森と田畑に、白い芋虫状の舐目苦自が押し寄せている。一匹や二匹ではない。森からあふれてくる芋虫たちは群れをなし、半数ほどが夏の家へと向かってくる。一番近くのものは崖先を登り始めていて、そのあたりで葉名たちとの攻防が続いているようだ。遠くからでもそれがよくわかる。これは守る側が不利だった。いくら葉名の力が強くても、圧倒的に物量が違う。
「おいっ、止まるな!」
水簾に腕を引かれてハッとした。
「このままじゃ……!」
「わかってる! この種子で、水結界を張りなおす」
水簾は水鏡のある場所へ行こうとしていた。延々と続く階段を睨みつけている。
「俺が水鏡のところまで行けば、結界を直せる。お前はひとまず、他の奴らと東の棟へ──」
「僕も行きます」
「だめだ。森に近い場所に行くことになる。舐目苦自が来たら、葉名でもないお前は足手まといだ」
アオジは胸元の袋を服の上からつかんだ。
「……なら、その場で葉名を作ります」
水簾はふと無表情になる。
「本気か?」
「いまは戦える葉名が一体でも必要です。そうでしょう?」
水簾は黙りこんでしまった。作った葉名がすぐに戦えるか、そもそも役に立つのかわからない。けれど、葉名が人より優れているのは確かだし、やってみる価値はある。心臓を贄とすれば、もちろん死ぬ可能性だってある。葉名が殺されれば術者も同時に命を落とす。けれどこのまま見ていることなんてできない。とっさに脳裏に浮かんだのはあの夜のことだ。目の前で死んだ輝夜と陽菜。あとすこしで助けられたのに──もうあんなことは嫌だった。水簾は無言で背を向ける。すれ違った葉名のひとりから短刀を受け取り、手渡してくる。その瞳から感情は読み取れない。透き通ったガラス玉のような瞳にのぞき見えたのは空虚な暗さで、これが水簾の素なのだとアオジは気がついた。
「これを使え。輝光石で研摩した刃だ。投げれば時間くらいは稼げるだろ」
「……ありがとうございます」
受け取った短刀は重みがあった。黒漆のさやからすこしだけ刃をずらすと、蒼く磨かれた刀身が光る──葉名斬りの刃だ。
「行くぞ」
どこからか爆発音が聞こえてくる。舐目苦自に火薬を投げているらしい。その轟音に水簾が耳を傾ける。
「飛び台の火薬だ。近いな」
谷の入り口は突破され、舐目苦自は谷間の中まで侵入していた。振り返ると、崖をはっていた舐目苦自が煙にいぶされ、数体落ちていく。爆発のあった場所を避けるように、続々と舐目苦自たちは入ってきている。
「あとすこしだ」
つらなる段の向こうは不気味なほど青い空だった。自分の呼吸と耳奥の鼓動がうるさい。汗がつたい、急な運動に肺が悲鳴をあげている。目の前の空を見てひたすらに階段をのぼった。水簾の舌打ちが聞こえた。立ち止まった水簾を追い抜いた瞬間、岩壁のてっぺんから舐目苦自が顔を出し、真横へ降りてくる。水簾との間にやってきた舐目苦自の姿を、アオジは間近に見た。肌色の巨体は小屋ほどの大きさがあり、全体は芋虫形だ。顔にあたるだろう部位に青黒い牙と、凶悪に笑んだ口がある。体から無数に突起が出ているが、それらはすべて人の手足だった。骨ばった足、子供の手、白くなよやかな女の手──それらがてんでばらばらに、なにかをつかむように手招いている。表皮には人の目や鼻、口、耳がちりばめられ、個別に動き回っていた。見ているだけで気が狂いそうだ。
「先に行け!」
水簾が腰の刀を抜くと、舐目苦自は体中の目で水簾の姿を追った。無数の歯がカチカチ鳴り、凶悪な青黒い牙がゆっくり開く。水簾は慎重に、階段の下へと後ずさりする。アオジは逡巡し、上へと駆けた。葉名を作り水簾を助ける。今はそれしかない。ようやく階段を登り終え、水鏡のある泉にたどりついた。震える手で柄杓をつかんだ瞬間、後ろでまた大きな爆発音がした。水簾は無事だろうか。他の葉名たちは──考えている暇はなかった。柄杓で水をすくい、口に入れようとして、ふと手を止めた。
こんこんと湧く水のなかで水鏡が割れていた。
丸い鏡は四方に細かなひびが入り、輝きを失っている。小さな紫の袋が泉に浮かんでいて、アオジはそっとそれを拾い上げた。袋の中身は空っぽだ。……なにかがおかしい。舐目苦自が夏に侵入したのは、水結界が突然消えたせいだ。水鏡と種子の力で結界は作られている。これがもし、誰かの仕業だったとしたら──。
またひとつ爆発音がした。慌てて柄杓の水を口に含む。考えている暇はない。小袋を胸元から取り出し、慎重に種を右手にのせる。針のように細い蒲公英の種だ。これを見ると、いつも陽菜のことを思い出してしまう。
夢で名を呼んできた陽菜の笑顔を思い出し、期待に胸が高鳴った。けれど、すぐに夢の続きのことも思い出した。夢の中で陽菜が何をしたか。アオジは首を振る。いや、これでいい。なにも間違えてはいないはずだ。
ふいに木々が倒れる音がして、森の奥から舐目苦自が一体、姿を現した。全身の歯を鳴らし、一直線に泉に向かってくる。
アオジは種を口へ運ぶ。
一瞬だけ、飲みこむときに躊躇した。葉名を作るのが怖かった。近づいてくる舐目苦自をにらみ、水と一緒にひと息に種を飲みこむ。心臓を贄とすると、強く心の中で念じた。
どくり、と全身が総毛立った。胃からせり上がってくるもやを、気づけばうずくまり吐いていた。あのときと同じだ。陽菜を作ったときと同じで、次から次へともやがあふれ出し、それが集まり人の形を成していく。幸いなことに、舐目苦自はこちらの異様な様子に戸惑い、歩みを止めていた。すべてのもやを吐き出したとき、アオジの目の前には一体の葉名が立っていた。白くほっそりとした足首、茶色の袴と陽だまりの色の長衣がみえる。見覚えのある明るい蒲公英の縫い取りが衣にあった。整わぬ息のまま、アオジは顔をあげる。目の前に立つ人物は──葉名は、長くつややかな茶髪をひとまとめにしている。白い首筋に喉仏があった。少女と見まがうほど可憐な顔立ちと、笑めばさぞ愛らしいだろう面差し。それはうりふたつの、いや、いっそ記憶の通りの──。
「はる、な……?」
遠くでまたひとつ爆音が鳴る。舐目苦自がカタカタ歯を鳴らしている。世界は水中に入ったようにぼやけてみえた。割れ鐘のように鳴る鼓動と、狭まる世界の中心にその葉名は立つ。陽菜は──産みだされたばかりの葉名は、アオジの呼びかけに反応する。ゆっくりと重たい睫を震わせ、無機質な冷たい鈍色の目を開いた。
──増鏡」へ
花ざかりの森 冷世伊世 @seki_kusyami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。花ざかりの森の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。