舐目苦自―2

 鉄輪に手をかけ、アオジを背負ったままで空中へ飛びだした。落下する先は水簾のいる物見やぐらだが、そこは今ゆっくりと傾いている。ぴんと張られた鉄線が急激な角度になり、おそろしい速度になった。このままだと地面に衝突する──そのぎりぎりのところで、沙琉婆は鉄輪から手をはなした。アオジは倒れていくやぐらをなんとか視界にとらえた。やぐらの上で水簾は器用に移動している。俊敏な動きでずいぶんな高さを走っているが、こちらに気づくと目を丸くした。


 ぷつりと音がして、沙琉婆と自分を結んでいた紐が切れた。沙琉婆の背から勢いよく離され、体が宙にもてあそばれる。視界が回った。空、森、大地、森、空と、見えるものがめまぐるしく変わる。そして衝撃。


「っ、つぅ……」

「無茶するなよ」


 とっさに水簾が自分をつかまえ、下まで一緒に転げ落ちてくれたらしい。打撲の痛みはあったが、骨が折れた感じはない。大地は鉄臭く、舐目苦自が発した液体で赤黒く濡れていた。起き上がるのを助けてくれた水簾が、前を見て息をのむ。


 吐息がかかるほど近くで、舐目苦自が口を開けて待っていた。水簾の目は茫然となにかを探していた。視線のさまよった先を見て、水簾が求めたものを知った。彼の刀だ。ここへ来る前に、水簾は刀を沙琉婆に預けていた。その刀は今、舐目苦自のてっぺんにつき立っていた。どうやら沙琉婆は降りた瞬間に、舐目苦自に一撃をくらわせて着地の衝撃を殺したらしい。すこし離れた場所で、沙琉婆がゆっくり身を起こしている。水簾はそんな場合でもなかろうに、沙琉婆の無事を見てほっと息をついていた。

 舐目苦自の牙は一瞬で迫ってきた。

 とん、と水簾に胸を押され、アオジは後ろに尻もちをつく。前に立つ水簾が反射的に刀を抜こうとして手が空を切り、失笑するのが聞こえた。次の瞬間、水簾は頭から怪物に食まれた。腰まで丸のみにされ、牙の間から両足が見えている。


「この野郎ぉおぉぉおお!」


 激昂した安漸美が、刀で舐目苦自の体を何度もつき刺している。化物はかゆいとでもいう風に体を振り、さらに水簾を飲みこんでいく。


「どいて!」


 泥だらけの颯希が落ちていた麻袋を拾い、塩を思い切り舐目苦自へかけた。聞くに堪えない声を上げ、舐目苦自の身が溶けはじめる。同時に、舐目苦自から大きな血しぶきが上がった。紫陽羅がその背後から斬ったのだ。噴水のように吹き上がる体液があたりを濡らし、アオジもそれを浴びてしまう。ようやく動きが止まった舐目苦自から、安漸美が急いで水簾を引っぱりだしていた。


「おい、おいっ!」


 丸のみにされたことが幸いしたようで、水簾は奇跡的に致命傷もなく生きていた。


「どこか切れていませんか?」


 淡々とそう言ってのけたのは紫陽羅だ。ともすれば水簾ごと斬ってしまいかねない暴挙に及んだのに、平然としている。「あれ、生きてる?」と水簾が目を開き、場がほっと緩む。周囲の笑顔とは反対に、アオジは血濡れた紫陽羅から目が離せなかった。陽菜を殺したのと同じ刀を手に、あの夜と同じ姿で立っている。全身を朱に染め、平然とたたずんでいる。その無表情な細い瞳をじっと睨んだ。紫陽羅がいなければ水簾は助からず、アオジも死んでいた。けれど感謝の念はわかない。なにかを殺し、平然と動揺もしない紫陽羅のことを、アオジはまだ許せなかった。


 


「みんな、よくやった。あとはほどほどにな」


 水簾は居残り組に手をひらつかせる。舐目苦自の検分と調査のため、紫陽羅と安漸美、颯希たちはその場に残るようだった。赤黒い血でべっとり汚れ、いまにもひとっ風呂浴びたそうな顔をしている。沙琉婆に背負いなおされたアオジも同じ気持ちだった。舐目苦自の血が乾燥し、髪や服がべたつき気持ち悪い。みんな疲れて無口になっていたが、沙琉婆もむっつりと黙りこんでいた。紫陽羅から先ほど、「沙琉婆、あなたには今回の件で話があります」と念押しされていたから、うまく立ち回れなかったことを後で怒られるのかもしれない。足手まといだったアオジにも責任はある気がして、すこし申し訳なくなった。


 沙琉婆に背負われ、田んぼのあぜ道を岩壁へと戻っていく。前を歩く水簾は気持ちよさそうに風を受けている。右手には鬱蒼とした森、左手には水田が広がっている。透明な水が青空を反射し、夏の領地はどこまでも澄みきってみえる。なんとはなしに景色を眺めていたアオジは、ぎょっとした。人が田んぼに立ち、手ずから苗を植えている。そんな作業は春の地ではまずしないことだ。春の地では、葉名が畑に作物をある程度まで実らせて、それを最後に人の手で収穫する。だから目の前の光景は、アオジの常識を覆すものだった。人が最初から手で作物を植えるなんて──泥まみれで田植えをする姿は汚らしく、作業は遅々として進んでいないようにみえる。近くで作業していた初老の男性が水簾に気づき、人懐こく笑いかけてくる。


「水のせがれ。えろうやられとったの。大丈夫け?」

「おう、悪いな騒がせて。すぐ片づけさせるから」

「よか。いっときに比べりゃましたい。それよか、またアレやらんけ?」


 すっと、男が手まねで碁石をさす。水簾は頷き、苦笑した。


「忙しくて。また今度」

「あぁ、聞いたちや。秋のコレけ?」

「ばぁーか。ちげぇよ」


 カラカラ笑う男と水簾は、領主と領民の関係にはとうてい見えなかった。これも春の家ではありえないことだ。厳格な身分と立場の違い、それを春では徹底的に教えこまれる。今のような態度を月水へ誰かがとろうものなら、それだけで吊るし首だ。朗らかな別れの挨拶の後、沙琉婆がぼそりと言う。


「水簾様。秋の件は非公式です。あまりおおやけに認めたら」

「ちゃんと否定したろ」

「また紫陽羅兄さんに怒られますよ」

「なんだお前。さっきまでの落ちこみようはどうした? 何を怒ってる?」

「ッ、べつに、怒っていません」

「怒ってるだろうが。ん?」


 憮然と沙琉婆は黙り、立ち止まった水簾を追い越していく。背負われたアオジも自然と水簾を追い越すことになるが、目が合うと水簾は肩をすくめてみせた。


「沙琉婆はお年頃だからな。成長期は色々むずかしい」

「なっ……誰が! 僕はこれ以上成長しませんよ!」

「分からないだろ。葉名にだって成長期はある」

「──ほんとうに?」

「さぁ」


 アオジはあんぐりと口を開けていた。沙琉婆が葉名だと、水簾は今そう言った。アオジの目には沙琉婆は人に見える。感情豊かで、春の葉名に比べてもはるかに積極性がある。水簾の葉名だという紫陽羅にも感じたことだが、夏の葉名はすべてにおいて春と大きく違っている。春の葉名たちは一歩引いて行動し、必ず敬語で主人のそばに控えていた。それがここでは自由に、ひとりの人間として扱われる。だから違和感をおぼえるのか──いや、それだけではない。はっきりとは言えないが、葉名の雰囲気が違うのだ。春で「この人は葉名だ」と思えば必ずそうだったし、たとえ知らなくても葉名だと教えられれば、「ああ」と納得もできた。彼らはそういった存在だった。ふんわりとして、この世の者ではない空気と隔絶感をまとっていた。いくら人とともに生活してみても、拭えない本質が彼らには染みつき、いつも香っていた。それが夏では違うのだ。ここの葉名たちは人間にしかみえない。だからこそ、アオジには不気味に思えた。人だと思い接していた者が葉名だった──そんなことが夏では当たり前に起こり、それを誰も不自然だとは考えていない。

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