舐目苦自

「水簾様、どうするつもりです? こいつを舐目苦自に食わせますか?」

「いいからちゃんと持ってろ」


 アオジは沙琉婆という少年におぶわれ、運ばれていた。もう立ち上がる気力もない。誰かに歯向かうことも、殺したいとも思えず、心は萎えてしまっている。ひとたび気力がついえると、体の不調と無理からくる疲弊だけが残った。


 前を歩く水簾は岸壁の外に作られた細い道を進んでいた。右側は切り立った崖で、落ちれば命を確実に落とす高さだ。下は霞んでよく見えないが、大きな川の気配がある。川を挟んで向こう側にも絶壁がある。ここは渓谷なのだ。水簾が足を止める。道が途切れていた。一歩進めば断崖絶壁で、前方は渓谷の切れ目だ。遠くに森と、黄緑の丘陵地帯がみえている。ここからどうするつもりなのか。すると水簾は、頭上にある鉄輪に手をかけた。鉄輪は人の顔ほどの大きさで、崖に固定されている。輪の部分は可動式で、鋼鉄の縄に通されている。縄は崖沿いをずっと下まで続いていた。


「先に行く。そいつを落とすなよ」


 まさかと思ったときには、水簾は勢いよく飛び出していた。頭上の鉄輪を握り体重を使って、猛烈な勢いではるか下の物見台へ着地している。水簾の移動した物見台は絶壁にせり出す形でつくられ、そこからさらに点々と、鉄輪の通り道に同じ台が用意されている。落ちればまず助からない高さなのに、軽々と飛び出せる水簾は肝が据わっている。


「これ、大丈夫だよな……」


 沙琉婆は不安げに頭上の鉄輪と、はるか下にある物見台を見比べている。水簾のいる物見台は、灰色の岩壁に生える平たいきのこのようだった。ここからだと水簾は羽虫程度の大きさだ。沙琉婆は言われたとおり、入念にアオジと自らを結ぶ紐を確認している。


「大人しくしてろ。でないと、本当に崖から落とすからな」


 沙琉婆は冷たく吐き捨てるような口調だったが、アオジを担ぎ直す仕草は優しかった。傷に障らないよう、気遣ってくれているのだ。ここまでくる道中も、咳きこめば「ほら」と、瓢箪の水を背中越しに与えられた。逆らうのも面倒で口に含むと、沙琉婆はほっとした顔で「まだあるから、必要なら言えよ……そうしろと、言われているだけだが!」と、早口でまくしたてていた。この沙琉婆という少年は根が優しいのだろう。夏の者たちに良い印象はないが、この少年に対しては、アオジは憎しみを抱けなかった。沙琉婆は紐がちゃんと結んであるかを確認し、水簾が次の足場へ移ったのを見て、「よし……」と鉄輪へ手をかける。


「落ちるなよ」


 沙琉婆は空中へ足を踏み出した。ふたり分の体重に鉄輪と縄が軋み、ものすごい音がする。火花を散らし、垂直に落ちるように進んだ。耳を塞ぎたくなる鉄同士がこすれる音と、頬が揺れるほどの風がぶつかってくる。移動は一瞬で、ぶつかるように着地する。


「っ、……!」


 大変だったのは止まるときだった。どうやら勢いを殺しきれないと判断した沙琉婆は、着く寸前に左手で得物を抜き、それを岩壁に刺し踏ん張った。それでも水簾のときより勢いがあり、受け身も取れなかった。


「あぁもうっ!」


 アオジを背負ったまま立ち上がった沙琉婆は、体より刀の方を気にかけていた。岩壁は脆い素材のようだが、刀は使えないほどに刃こぼれしている。


「おおい!」


ひとつ下の物見台から水簾が手を振ってくる。紐を締めなおし、沙琉婆は頭上の鉄輪につかまり降りていく。今度はゆっくりと、あらかじめ抜いていた刃で岩壁を使い、時間をかけて降りた。


「すみません、一本駄目にしました」

「俺はかまわねぇが、紫陽羅は怒るかもな」


 嫌そうに黙った沙琉婆の向こうで、水簾と目が合う。水簾は「ん」と前方を示した。


「見えるだろ。森の方だ」


 左手に森、真ん中に川をはさみ、右手に水田が広がっている。とてものどかな風景だ。森の入り口には物見やぐらがふたつあって、アオジたちが滑ってきた鋼鉄の縄はそこへ繋がっている。先に大広間を出て行った者たちもここを通ったらしい。豆粒程度の人影がふたつ、やぐらの上に立っている。


「安漸美たちですね。おとりは……紫陽羅兄さん?」

「いや、颯希だ。紫陽羅は仕留めだな」


 しゃんしゃんと、鈴の音が森から響きわたった。木が一列に倒され、轟音とともに何かが近づいてくる。人より大きい何かだ──土煙をあげ、物見やぐらの方へ進んでくる。現れたのは化物だった。遠目にも異様な生き物だとわかる。人の何十倍もある大きさの芋虫で、白い突起がつぶつぶと体から出ている。身を引きずり移動しているのに、動きは馬よりも速い。青黒く光る狂暴な牙が、先導する颯希を飲みこもうとしていた。


 見ているだけで不安になってきた。颯希の足はかなり速い。不安定な足場をうまく使い、巧みに移動している。けれど、追いつかれれば終わりだ。化物は馬をひと飲みにし、さらに腹を空かせるような大きさなのだ。二本の物見やぐらの間を颯希が通り抜ける。化物があとすこしで追いつきそうになった、そのときだ。やぐらの上のふたりが、麻袋から大量の粉を下へ落とした。全身に粉を浴びた化け物は、とたんに苦しみだす。巨大な身から水蒸気が立ちのぼり、辺りに赤黒い液体が染み出した。体から煙を上げて、化物はひと回り小さくなった。


「あれは塩だ。清めて穢れを落とし、小さくしてから斬る」


 水簾が律儀に教えてくれた。化物の白い突起は溶け、崩れていく。最後に残ったのは異形の人の姿だ。頭が四つ、腕と足は数えきれないほど生えている。人間の四肢をばらばらに、無理やりにつぎ足したような形だった。小さくなった異形の化物は、赤黒くなった大地をよろつき歩いていく。距離があるからこうして冷静でいられるが、間近にみれば失神しかねない様相だろう。水簾の声だけが冷たく響く。


「あれが舐目苦自だ。間違ったことを、間違いと認めずに行ってきたことの結果でもある。俺たち夏はそれを粛清する」


 化物がよろつき歩く先に、紫陽羅が立っていた。牙を剥いた化物を、容赦なくその刀が切り裂く。斜めに寸断された舐目苦自は勢いよく血潮を吹き、ふたつの部位にわかれて地に落ちた。物見やぐらから安漸美たちが降りてきて、死んだ舐目苦自を検分している。どうやら無事に退治したらしい。


「さて、戻るか」


 軽やかに笑った水簾が、ふと森を見て固まった。


「え、水簾様?」


 沙琉婆に自らの刀を押しつけ、水簾は足元の麻袋をふたつ背負うと、流れるように鉄輪をつかんだ。


「来るならそいつを置いてこい!」

「えっ、なにして……!?」


 あっという間に水簾は宙へ飛び出した。鉄輪で降り、紫陽羅たちのいる物見台へ移動している。それと同時に、森の入り口で土煙があがった。化物がもう一体いたのだ。それが紫陽羅たちの方へ向かっている。


「っ、くそ」


 アオジを結んでいた紐は固く巻きすぎて、うまくほどけないようだった。沙琉婆が手間取っているうちに、舐目苦自は森を抜け、安漸美や颯希たちのすぐ目の前まで進んでいた。物見やぐらの上に着いた水簾が、下へ向かって麻袋の中身を勢いよくぶちまける。塩を浴びた舐目苦自の身がほんの少しひるんだ。水簾は真下に声をかけていた。


「今だ、上へ来いッ!」


 舐目苦自はのたうち、水簾のいるやぐらを倒しにかかる。簡素なやぐらは根本から折れ、水簾を上に乗せたままゆっくりと倒れていく。下には涎をたらした化物の青黒い牙が待ち受けている。沙琉婆はしばらく紐と格闘していたが、水簾のいるやぐらが倒されるのを見ると、手を止めた。


「悪いがもう行く!」


 鉄輪に手をかけ、アオジを背負ったままで空中へ飛びだした。

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