怒り―2
拘束を解かれて、立つ気力もない体を引きずられる。本当に、歩くというより引きずられていた。右腕をかついだのは安漸美と呼ばれた女だった。年は二十歳ほどにみえるが、もし葉名だとしたら、実年齢はわからない。葉名の年齢は見た目に比例しないからだ。腕を引っ張られたとき、長く真っ直ぐな黒髪が乱れたが、安漸美は気にする風もない。鋭い目つきで睨みつけてくる。
「いいか、下手なことしてみな。死なない程度に殺してやるから」
安漸美は不快感を隠しもしない。一刻も早くアオジを手放したいと全身で示している。足が浮く勢いで引きずられていく視界は、彼女の長い黒髪に何度も覆われてしまう。密着した体からは強い花の香気がした。やはり安漸美は葉名だろう。活動的で言葉づかいも荒く、春の葉名とは大違いだが、そうでなければこの人並み外れた美貌と腕力の説明がつかない。
もうひとり、沙琉婆と呼ばれた少年は左を歩いていた。こちらも、とても綺麗な顔立ちをしている。安漸美が気の強い凛とした花だとすれば、沙琉婆は一輪で咲く小さな花のようだ。どこか気弱で、それを隠そうと虚勢を張っている。そんな風にみえる。うす紫の長髪をひとつに束ね、黒の胴着の腰に長い黒鞘の刀を差している。吊り上がった猫目が時おりアオジを窺い、はっとしたように逸れていく。興味深そうな視線をくれるが、それを隠そうと不機嫌なすまし顔をつくっているようだ。歳はアオジと同じくらいだが、彼が安漸美を作った術者なのかもしれない。
建物を出ると、外に白い石橋があった。滝が触れられるほど近くにある。絶壁と絶壁を結ぶ橋を渡る間、全員が滝のしぶきをまんべんなく浴びた。全員慣れているのか、平然と濡れながら歩いていく。橋を渡り切ると、絶壁をくり抜いた中に水簾は入っていく。うす暗い空間は意外と広く、奥にはいくつも部屋があるようだ。どうやら夏の家は絶壁を掘り進み、蟻の巣のように広がっているらしい。見渡すかぎり灰色の石でできていて、質素だった。春の家のように、洒落た花飾りや色のついた敷物はいっさいない。
どこをどう進んだのか、滝の真裏にある大広間へ水簾は入っていく。最奥の壁は取り払われ、滝の水しぶきが白い壁となり見えている。黒大理石の床はうつくしく磨かれ、踏みしめると足の裏に拒絶めいた硬さを感じた。黒く殺風景な広間には、夏の男女が二列に並び立っていた。数は二十名ほどで、全員が腰に黒鞘の刀を差し、白の着物に身をつつんでいる。アオジは一瞬、その場の全員が葉名だと思った。愛らしい者やぞっとするほど凛々しい者、造作は違うが、いずれもこの世のものとは思えない美しい見た目をしている。男女の数は半々なので、葉名を産み出した術者も相当数混じっているようだ。葉名は基本的にすべて女性だから、この場の男は全員術者なのだろう。
「そこへ下ろせ。拘束を外して」
水簾の指示でアオジは手荒く床へ落とされた。沙琉婆と呼ばれた少年が、手足を結わえていたひもを切る。
「お前らはそこで見てろ。手だししたら殺す」
這いつくばるアオジの前に、水簾が抜き身の刀をけり転がした。磨かれた床でゆっくり回転を止めた刃は、本物だ。人を殺せる武器が目の前にある。右腕と両脚でゆっくり身を起こし、迷わず刀を手に取った。丸腰で立つ水簾の後ろに、紫陽羅が控えていた。細い眼でじっと事態を静観している。水簾は目をぎらつかせ、嫣然と笑んだ。
「お前、紫陽羅が憎いようだが、この葉名をつくったのは俺だ。俺を殺せばやつも消える。どうだ? やってみないか?」
「おい、なにを──」
うろたえたのは安漸美だった。
「黙ってろ」
「こいつが気に入らないなら、私が」
「黙れ!」
恫喝に空気が震え、安漸美が息をのむ。水簾は全身に怒気をみなぎらせている。
「さあ。その刀で俺を殺してみろよ。ほら」
水簾は完璧に頭に血が上っているらしい。一緒に歩いてきた沙琉婆は怯えたように下がり、他の夏の者たちも固唾を飲んでいる。刀の柄に手を添える者、いつでも駆け出せるように身構える者の姿もみえた。アオジは必死に言われたことを理解しようとした。相変わらず左肩の痛みが激しく、思考がまとまらない。紫陽羅が、水簾のつくった葉名──そんなことがあるだろうか。紫陽羅はどう見ても男だ。葉名ではなく人に見えたが、本当かどうか確かめるすべはない。水簾はいらいらと足踏みする。
「なんだ、殺らないのか。なら、これはどうだ。俺が春のやつらを皆殺しにするよう、紫陽羅に命じた。夏の当主は俺だ。春の人間のひとりやふたり、あるいはお前の葉名にしたって、見逃してやることもできたかもな。けれど俺がみな殺せと、そう厳命したんだ」
紫陽羅が思い切り顔をしかめている。水簾が言っていることは正しいのだろう。刀を握る手に力がこもる。罪のない輝夜が──陽菜や葉名たちが殺されたのは、水簾のせいだ。水簾は笑っている。
「紫陽羅に聞いたぜ。お前の葉名、手ひどく殺られたそうだな。腹を裂かれて腸をこぼして、さぞ苦しかっただろう。かわいそうに──」
アオジは駆け出していた。途中で足がもつれ転んだが、なにも考えずに立ち上がり、そのまま斬りかかる。振る一閃は空ぶりで、水簾は苦もなく身をかわした。
「どうした、来いよ」
たたらを踏んだが、アオジは右腕を振り回す。計算のない素人の太刀筋は大きくゆるやかで、丸腰の水簾にあっさり足を払われる。仰向けに倒され、水簾が馬乗りになってきた。右腕を押さえられる。
「っ、……っくそ!」
「丸腰の相手にこれか? そんなでどうやってうちの葉名を殺した」
「なんの、話だっ……」
「俺を殺す、最後の機会だぜっ」
首を絞められている。刀を握る手を肘で押さえられ、そのまま容赦なく気道を絞められる。間近に水簾の獣じみた笑みがあった。この腕さえ動けば……すぐそこに、手の届く距離に水簾がいるのに。水簾を殺せば紫陽羅も死ぬ。もし紫陽羅が人間でも、夏の当主は殺せる。
「っ、……ぁ、ッ……」
刀を握る手が動かない。苦しい。視界がちらつき、全身が痺れていく。こいつを殺せば──それで、どうなる?
そのとき、アオジは水簾を意識して見た。水簾は泣き出しそうに顔を歪めていた。悲しみと憎悪に血走った瞳を濡らし、耐えきれないと噛みしめた唇からは、今にも誰かの名がこぼれそうだった。もういない、すでに死んでしまった誰かの名だ。水簾は自分と同じなのだ。そう思ったら、刀を握る手から自然と力が抜けていった。抵抗をやめ、苦しみに耐えて目を閉じる。水簾は息をのみ、締めていた両手を震えながら放した。途端、空気が勢いよく注ぎこまれ、むせてしまう。ようやく息が落ちついた頃、刀はいつの間にか沙琉婆に取り上げられ、水簾は悄然と立っていた。どれくらいそうしていただろう。話し出すきっかけを誰もが待っている──その空気を破ったのは、場にそぐわずやかましい声だった。
「大変、みんな──っ!? どうしたの、この重い空気」
「
空気を読めと、紫陽羅が神妙な顔でたしなめる。現れたのはまだ十歳にも満たない子どもだ。白地に赤糸をあしらった水干姿で、高下駄をカラコロ鳴らしている。怒られたのに、颯希は構わず水簾へ叫んだ。
「
「なに!?」
反応したのは周りの者たちだ。紫陽羅は静かに水簾を窺い、反応がないのを見ると頷いた。
「わかりました、すぐに行きます」
そのとき、ようやく水簾が息を吐き出した。全員が口をつぐみ、静止する。
「俺も行く」
紫陽羅は戸惑ったようだった。
「あなたも、ですか?」
「遠くから見るだけだ。問題ないだろ?」
なにか言いたげな紫陽羅はそれでも黙っていた。水簾は元通りの明るい笑みで、「それから」とアオジを振りかえる。
「こいつも連れていく。ちょうどいい気晴らしだ」
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