怒り
それ以降、アオジは食事を一切とらなかった。無気力にただ横たわり、水すら含まない。無理やり飲まされそうになったときには、身をよじり必死に抵抗した。二日もたつと意識も朦朧としてくる。食べず飲まず、眠れないのでぼんやりと起きている。いつしか食事の膳も運ばれなくなった。夜に人がきて水や薬を飲ませようとすることもなくなった。このまま虫の死骸のように干からび、消えていくのだろうか。時間の流れもわからない、永劫にも思えるときを朦朧と過ごしていた。
キン、と甲高い音が規則的に響いている。真夜中だった。束の間、意識を失っていたらしい。身じろぎもせず目を開けると、また硬質な音がする。宙に光るものが投げられ、落ちていく。誰かが部屋の中にいる。壁にもたれて座る水簾が、光る短刀を手で上に投げていた。落ちてきたところを器用につかまえ、遊んでいる。くるくると抜き身の刃が月光に跳ね、銀色に輝いている。投げられたときと受け止められたときに、短刀のつばが音を鳴らしているのだ。
「よう」
彼はゆっくりと微笑んだ。爛々とした目には不思議な興奮の色がある。くつろいでいるように見えるが、全身には張りつめた怒りがみえた。好機だと思った。
「……なぜ、殺さない」
水簾はすこし真面目な顔になり、考える素振りをみせる。
「なぜ、ねぇ。お前は死にたいのか?」
とっさに頷きそうになり、慌てて答えをのみこんだ。「そうだ」と言えば彼は自分を生かしてしまうと、直感的にそう感じた
「ずるいから、かな」
水簾がぽつりと言った。暗闇に聞こえたのは拗ねた子供のような声だった。黙っていると、すぐに取り繕うような軽い口調になる。
「それに今は道具がねぇよ。あ、これは違う。葉名斬りの刃だから」
「葉名、斬り?」
「見たことねぇのか?」
水簾は抜き身の刃をかざして見せる。刃は人の手ほどの大きさで、刀身が青く輝いていた。光の加減でそう見えるのではない。刃そのものがうす青色に発光している。
「
最後はひとりごとになっている。弄ぶように手首をかえし、ひゅんと切る刃をアオジはじっと見つめていた。あの青い刃が陽菜を殺したのだ。
「これが欲しいか」
おもちゃを見せびらかすように悠然と笑い、「やらねぇよ」と水簾は立ち上がる。出て行くつもりだ。
「待て。なにが、目的だ……なぜ、殺さないっ……!?」
「飯を食え。そして水と薬を飲め──その問いにはさっき答えた」
「まっ……」
鉄扉があっさり閉じられた。水簾は帰ってこなかった。
いつの間にかまた意識を失っていたらしい。
「おい」と頬を張られて目がさめた。喉がからからでひりつき、息を吸うのも苦しい。眩しさに目を開けると、部屋が明るくなっている。今は朝か昼なのか? ──時の感覚がすっかりない。
「起きろ」と身を揺さぶるのは長い黒髪の女だ。改めてみると、ぞっとするほど綺麗な顔立ちをしている。意思の強そうな眉は寄り、目に苛立ちの光が燃えている。以前、暴れるアオジを押さえつけ、殴った女だった。凛とした面差しはどこか大輪の牡丹を思わせるが、昔からアオジは牡丹の花が苦手だった。牡丹は気が強く、傲岸で恐れを知らない花だ。真っ赤な花はいつも力強く咲き、見るものをじっと睨みつけてくる。──こんなことを思い出すのは、ひょっとしたら、彼女が葉名だからかもしれない。葉名にしては自我が強い気もするが、それぐらい凛々しくて美しい女だ。
部屋には他にも人がいた。水簾と、つんと澄ました少年が立っている。
「飲ませろ」
水簾が冷ややかに女へ言う。途端、無理やりに吸い飲みを口にあてられた。水がそそがれてくる。水だ──無意識にむさぼり飲み、それから思い出し、吸い飲みをはね飛ばした。
「ッ、この野郎!」
女が顔を歪める横から、水簾が無表情に近づいてくる。手に清水の入った木椀を持っている。明るい光の下で見るとよくわかった。水簾は怒っている。血の気の引いた顔色に、両目が静かな怒りでぎらついている。
「飯を食えといったはずだ。水も飲め」
「ぃや、だっ」
無理やりに運ばれてきた容器を振り払えば、負けじと水簾も水を流しこもうとする。しばらく押し合いが続き、ついに水簾は容器を床へ叩きつけた。
「そうかよ! そんなに死にたいか!? なんでこんな奴に俺の
床の上で転がる木椀は、割れることなくしばらく耳障りな音をたてていた。誰も何も言わない。ただ気づかうような視線が水簾へ向けられている。苛立ちを抑えるように水簾は大きく息を何度も吐いている。
「水簾様……」
「
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