緩やかに
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アオジは徐々に回復していった。身体が癒え、意識を保てるようになると余計に苦しくなってくる。あれ以来、部屋へ人が見える形で来ることはない。ただ眠っているときに──誰かが食事と水の乗る盆を運んできている。目がさめると手の届く台に黒い盆が置かれていて、吸い物や白飯、焼き魚などが用意されている。包帯も知らぬ間に変えられているし、口の中の苦味からは、薬をかってに流しこまれているとうかがえた。
だから夜、アオジはできるだけ眠らないようにした。意識を研ぎすませ、ひたすらに待った。手の届かない高さの格子窓からは、月の光が白く入りこんでくる。夜中になると、数名の足音が石床を踏み、近づいてくる。紫陽羅だったら──いや、他の誰でも、この歯で嚙み切ってやる。そうすれば自分に対する態度も変わるだろう。こうして生かされていることが、もう耐えられなかった。殺すなら殺せばいいのだ。発散できないままの怒りが体中を巡り、投げやりな勇気がわいてくる。重い鉄扉を開ける音に続き、三人分の足音が聞こえた。静かに、そっと台の上に食事の盆が置かれる。古い手つかずの膳を誰かがとりかえている──その瞬間、アオジはその手をつかんだ。思い切り引きよせる。
「っ!」
相手の顔を見もせず、首筋に歯で食らいつこうとした。その寸前、横から別の者に寝台へ押さえつけられた。阻んだのは長い黒髪の女で、抗おうとすると、怒りをはらんだ女の声がした。
「こいつ! やはり殺しちまいましょう!」
「おおぅ、びっくりした……」
猫目を瞬かせ、唖然と首筋を押さえているのは、以前紫陽羅と一緒にやってきた青年だった。茶色の獅子のような短い髪で、白い着物をゆるくまとっている。前に来たときよりは多少顔色がいい。アオジは抵抗しようとしたが、押さえつけてくる女のほうが力強かった。女の長い黒髪が顔にあたり、花の芳香がむわりと広がると、言いようのない嫌悪が胸をみたした。
「はな、せっ、くそ女──!」
「あぁ?」
低い声とともに、女の拳が腹を抉る。痛いというより衝撃だった。目の前に星が散り、痛みで耳奥が甲高く鳴る。しばらく動けないでいると、その間になんらかの話し合いが行われたらしい。大半は聞き取れなかったが、「だから」とか「こいつを」と三人でなにやら揉めている。
「ッ、勝手にしな!」
女の声が捨て鉢に叫び、ダァン! と腹底に響く音の衝撃がくる。鉄扉を投げつけるように閉め、女が出て行ったのだ。
「おぅ、こわあ」
獅子色の髪の青年が震え、もうひとり、この場に来ていた少年がじろりと目線を送る。
「今のは水簾様が悪いですよ。あれは僕でも怒ります」
「なんで?」
「……もういいです」
「ふうん。悪い、それ拾っといて」
アオジが暴れたせいで床に転がった食器を、少年は「なんで僕が」と言いながらも拾い、手早く床を清めている。
「さてと。お前、名は?」
思い切り睨みつけたのに、相手はにやついていた。
「ま、いいや。おいおい聞くとして、俺の名は──」
「水簾」
呼び捨てにしてやれば、青年は「ほう」と嬉しそうに目を細める。ありったけの憎しみをこめたのに、怒りの反応を返したのは、転がる椀を拾っていた少年のほうだった。アオジと同じ年ごろの少年は線が細く、危うげな儚さをはらんだ美しい面差しをしていた。触れれば壊れてしまいそうな繊細さを胸に秘め、それを隠そうと必死に虚勢を張っている雰囲気がある。彼は今、じっとりと無表情の中に冷たい怒りを含ませて、アオジを睨んできていた。自分たちの当主が呼び捨てにされたことに怒っているのだ。間違いない。目の前でにやついている青年こそ、水簾──夏の当主だ。あの夜の宴で月水と話していた。あのときは顔に白いかけ布があったから、夏の当主に関しては声だけしか知らない。けれどよく記憶と照らしあわせれば、軽い口調や張りのある声には聞き覚えがあった。水簾は旧知の友にでも話しかけるような口調だった。
「さっきは悪かったな。どうも春の家と違って、うちのはみんな手が早くて」
ははっと、軽やかに笑う神経がアオジには信じられない。
「──ふざけるなよ」
出した声は震えていた。怒りのせいだ。横で見ていた少年が、見かねたと口を挟んでくる。
「水簾様、もう戻りましょう」
「え、でも俺はまだ」
「あなたの無神経はあまりにひどい」
「なんだよそれ。お前ら最近、俺に当たりきつくね?」
「いいから」
無理やり腕を引っ張られ、水簾は「またな!」と軽く手を振り部屋を出て行く。唖然とそれを見送って、思わずこぼしていた。
「……なんで」
馬鹿にしているのか。視界の端にあった湯気を上げる膳を、思い切り叩き飛ばした。強固な木でつくられた食器は欠けることもない。部屋のものはすべて無駄がなく、計算しつくされていた。清潔できっちりとして、牢にしては扱いが良すぎる。疲弊して寝返りをうつと、遠く頭上にある格子窓から月の光が入りこんでいた。見慣れたはずの明るい光が、ここでは白々しく、まったく別の物にみえる。
いったいどういうつもりだろう。春の家の者を生かして、彼らになんの得がある? 頭に浮かぶのは失ったものばかりだ。かってにあふれてきた涙を右腕で覆い隠した。頭上にあるこの月が嫌いだと思った。情けない弱さも含めて、己のすべてを見透かされているようだ。こんなところでひとり生き残り、どうしろというのか。たとえ春の家に戻れたとしても、アオジの知り合いはもう誰もいない。しゃくり上げると、したたかに殴られた腹や左腕の傷口に響いたが、その痛みすら、もうどうでも良かった。死んでしまえばいいのにと、そう思った。なにもできないのならいっそ、死んでしまいたかった。そうすれば、先に逝ったみんなに会えるかもしれないのに──……。
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