水鏡 ―夏は秋に愛される.
まどろみ
意識が戻ったとき、アオジは茫然と瞬いた。
かすむ目で数回まばたきをする。ただそれだけの作業がひどく気だるい。どうやら横向きに寝かされているようだが──目の前にある床が、どうして見慣れた自室の木板ではなく、灰色の石なのかがわからない。身体を意識すると急に痛みを感じた。
「ぅぐ、あ……っ」
右に転がり、寝台から石床へそのまま落ちる。とっさに左手で支えようとしたが、なぜかうまくいかなかった。石床はざらりとした感触で、触れた肌が凍るほど冷たい。
「ぅ、はる、な……?」
冷たさにすこしだけ頭が明瞭になる。無意識につぶやいた言葉に、心臓をわしづかまれた。陽菜は。自分は、輝夜は。今どこにいる……──?
「気がつきましたか」
男の声がした。倒れたまま視線を上げると、紫色の衣を着た男が立っていた。無造作に腰まで伸ばした紺色の髪に、つめたく表情にとぼしい顔。白い羽織を見て心臓が脈打つ。夏の者だ。無理をして顔を上げると、男の顔がよく見えた。染みひとつない白肌に細く鋭い瞳。見覚えがある。陽菜を殺した奴だ──!
よくも。よくもよくもよくも──!
とっさに動かない体を引きずり、右腕を伸ばした。震える指で紫紺の衣をつかむ。無理に動くと体は悲鳴をあげ、犬のように呼吸が荒くなる。男はなにかを言いかけたが、やがてため息とともに屈みこんだ。
「大人しく寝ていてください。せめて回復するまでは、ッ」
伸びてきた男の白い指に思い切り噛みついてやった。食いちぎるつもりで噛んだのに、力が足りず、わずかに血を滲ませた程度だ。ふうふう息をつき、そのまま喉笛に喰らいつこうとしたら、激痛に襲われた。
「うあっ、あああぁッ──!」
「大人しく寝ていなさい。まったく」
男がアオジの傷ついた左肩を思い切り、握りつぶすほど強くつかんだのだ。そのまま元の寝床へ抵抗する暇もなく戻されてしまう。顔を無理やりつかまれ、白い粉薬と水を流しこまれる。
「痛み止めです。多少眠くはなりますが、ちょうどいいでしょう」
吐き出そうとむせるのを一瞥し、男はそのまま部屋を出て行った。意識が溶ける。視界がかすみ、目を開けていられない。いやだ、眠りたくない。いやだ、奴を殺してやる。奴を、それまでは……──。
ふたたび目が醒めたとき、喉がからからに乾いていた。咳きこむと、人の気配が近寄ってきた。口もとに吸い飲みがそっと当てられる。流しこまれた水を夢中で飲みこんだ。肺に水がすこし入り、えずいてしまう。
「落ちつけよ、ゆっくり」
背をさすられ瞬くと、初対面の青年が呆れ顔で屈みこんでいた。年はアオジより少し上、宵待と同じくらいだった。獅子のような茶色の髪が、寝ぐせであちこちはねている。ずいぶんと疲れた顔で、きりとした目元は苦笑している。やつれた顔だが、きちんと身なりを整えていれば、太陽のように明るく壮麗な若者だと思っただろう。青年はふざけた半笑いを浮かべた。
「お前、紫陽羅の指を食いちぎりかけたって? 惜しかったな。一本くらいとってやればよかったのに」
息が切れて喋れないでいると、戸の外から聞き覚えのある声がした。
「
「おぉ怖。嫌なやつだろ? ろくに冗談も通じやしねぇ」
青年が肩をすくめ、立ち上がる。彼が動いたことで、戸の影にいたもうひとりの姿が見えた。あいつが──陽菜を殺した紫陽羅と呼ばれる男が、隠れるようにして立っていた。
「っ、──ッ!」
「ほら、だからお前は顔出すなっつったろ」
「……顔は出していませんが」
紫陽羅のほうへ行こうとしたが、右腕と両足が寝台に結わえられ、動けなくされていた。暴れると体があちこち痛んだが、構わずアオジは声を絞り出した。
「殺す! 殺してやるっ。こっちに来い!」
顔をのぞかせた紫陽羅は、不快そうに黒い瞳をぬらと光らせている。一歩入ってこようとしたのを、青年が片手で止める。
「だから。お前はこっちに来るなって」
紫陽羅は目を伏せ、不服そうに身を引いた。青年もその後を追い、肩をすくめる。
「悪いな、不愛想なやつで。また来る」
「ま、待てっ……」
鉄扉が大きな音で閉じられ、足音が遠ざかっていく。
──なぜ、生かしておくのです?
紫陽羅が淡々と話すのが石壁に反響し聞こえた。
「っ、くそ、くそっ、……ッ、……ッ!」
右腕と両足をばたつかせ、声をあげたが無駄だった。体は拘束され、身動きひとつ取れない。左腕は肩から先が全部消えていた。無くなっている。陽菜とともに消えてしまったのだ。アオジは叫んだ。泣きわめき、声を涸れるまで上げ、獣のように咆哮をあげた。右腕と両足を引きちぎれるほど動かし、寝具を揺らす。抵抗しようとした。けれど、誰も戻っては来なかった。誰も──アオジはここに、石造りの堅牢な部屋に閉じこめられた。
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