陽菜ー2
「アオジ」
陽が傾きかけた頃、輝夜とむらさきがやって来た。輝夜は赤く泣きはらした目を隠そうともせず、疲れた顔で野にたたずんでいる。うつらとしていたアオジは、ただならぬ様子に飛び上がった。陽菜はいつの間にか隣で丸くなり、すうすう寝ている。
「い、いかがされました?」
「大変なのよ……お兄様が、……こんなことだと分かっていれば、わたしだって──ッ!」
泣き崩れた輝夜に駆け寄ると、ようやく陽菜も何事かと目をこすり起きてくる。むらさきが輝夜の肩を支えようとしたが、輝夜は悲鳴をあげた。
「っ、触らないで!?」
身をすくませたむらさきは、すまなそうに謝り一歩下がった。アオジはどうするべきか決めかねて、そっと輝夜の前に膝をついた。
「どうされたのです。何かできることはありますか?」
輝夜はしゃくりあげ、地面をかきむしり泣いていた。いつもの悠然としたやわらかな雰囲気は消えている。地につきたった彼女の指が、豊かに咲く小さな花や草をぶちぶちとむしり取る。それでも足らないと、爪で土を掘り返している。近寄ってきた陽菜が怯えてアオジの肩をそっとつかんだ。泣きじゃくる輝夜は、それでもしばらくすると気丈に息を吐き、無理に笑ってみせた。声は震え、時々裏返りそうになっている。
「ごめんなさい、取り乱したわ。むらさき、あなたにも──悪いことをした。ねぇ、むらさき」
そう顔を上げた輝夜の瞳はうつろだった。
「むらさき、むらさき?」
宙をさまよった指を、むらさきが困ったようにそっとつかむ。
「ここに」
「どこにも行ってはだめよ。ずっと私のそばにいて」
「承知しております」
「ずっと。ずっとよ。離れてはだめ」
「はい」
輝夜を落ちつかせるためだけにむらさきは頷いたようだった。どうしたものかと弱り果てたアオジは、離れた場所で様子を窺っている当主・月水の姿をみとめた。正式な黒の水干姿で、目が合うと月水は馬を降り、歩いてくる。──驚いた。道沿いに月水の葉名たちが、ずらりと正服で顔をそろえている。普段はまったく顔を見ることのない葉名たちもいる。その数は二十体以上だ。美しいうす布に身をつつみ、全員が深刻そうにたたずんでいる。
「輝夜」月水に名を呼ばれ、輝夜は身を震わせた。優しく呼ばれただけなのに、恫喝されたみたいな反応だった。むらさきに縋りつく輝夜を見て、月水は諦めたように息をつく。
「アオジ」
「は、はい」
まっすぐ目を見て話す月水は、齢五十を超えてなお若々しい。灰色まじりの長髪を後ろにまとめ、思慮深いまなざしで柔らかに言葉を発する。
「
どうして、とは声にならなかった。星輝は当主・月水の第二子だ。歳はまだ二十歳そこそこで、アオジにもよくしてくれていた。つい先日、彼に会ったばかりだ。月水と一緒に星輝は用事で他領へ出かけた。出発の際に「土産はなにがいい?」と朗らかに問われ、うれしくも遠慮したのはたった五日前のことだ。
「なぜ」と口にしながら、アオジは事故だと予想した。道中で不慮の事故にあい、星輝は死んだのだ──だから月水は急いで帰ってきた。けれど答えは予想に反していた。
「星輝は殺されたのだ。葉名たちとともに」
輝夜の身が痙攣したように震える。むらさきがその横で背をさすっている。アオジは茫然とつぶやいていた。
「誰に……」
「夏の者たちだ。困ったことになった。急ぎ対応を話し合わねばならん。輝夜」
名を呼ばれても輝夜はうつむいたままだった。
「しっかりしなさい。お前にも春の者としての責任がある。……すでにあとには引けぬ」
輝夜は答えない。深いため息をこぼした月水の目が、ふとアオジの後ろに立つ陽菜へ止まる。おびえたように陽菜はアオジの肩をぎゅっとつかんだ。
「いずれにせよ、今宵は主上がおでましになる。星輝が出すはずだった葉名は消えてしまったし、その穴を誰かで埋める必要があるな」
あまりにも淡々とした物言いで、アオジはつい月水の顔を見返してしまった。息子が殺されたと言ったその口で、悲しみもせずに夜の祭儀について話しているのか。いや、とアオジはすぐに否定する。月水の冷淡にもみえる態度は、そう装っているだけだった。常より深く刻まれた眉間のしわや、かすかに赤い目もと、瞳にちらつく苦悶の色を見れば、悲しみを殺しているだけだとわかる。当主としてやることが多すぎて、悲しむ暇もないのだろう。夏の者に当主の子が殺された。経緯はどうあれ、それは争いの火種となりかねない重大事だ。
春夏秋冬、各領地をおさめる家同士の関係は、良好とはいえないまでも表立って敵対してはいない。その均衡が崩された今、数百年前のように、また血で血を洗う争いになりかねなかった。加えて今宵は主上がお出ましになる。月水には悲嘆にくれている暇も、休むひとときも与えられない。アオジはしっかりと頷いた。
「できることがあれば、何でもお申しつけください」
月水はようやく目元をやわらげた。
「また後で」
来た道を戻り、大勢の葉名たちを引き連れて屋敷へ歩いていく。その一行を輝夜は茫然と見送っていた。信じられないと沈んだその顔が、アオジの心をざわめかせた。
「さあ、輝夜様」
参りましょうと、むらさきが輝夜を立たせた。輝夜は両手と衣を土に汚したままで、よろつき屋敷へ戻って行く。一度も振り返らなかった。アオジは陽菜の手をとり、不安に揺れる目に頷いてやる。
「大丈夫。心配いらない」
きっとなにも変わらない。まだ陽菜が主上の塔へ呼ばれると決まったわけではない。もしそうなったとしても、今までとなにも変わらないはずだ。なかば祈りをこめた言葉に、陽菜もしっかりと頷く。震えるまつげの奥にはむしろ、力づけるような強い光があった。
「帰ろう」
自分たちも行かなければならない。その日の春の夕陽は、思い返してみれば見たこともないほどくっきりと赤く、不気味なほどに綺麗だった。
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