陽菜-1
陽菜は喋れなかった。他の葉名たちは清らかに歌い、人と相違なく意思疎通できる。喋れない葉名の存在なんて聞いたことがない。その姿が青年であることを考えても、どうやらアオジは葉名作りに失敗したらしい。
「種がきっと割れてたのね」
輝夜は申し訳なさそうにしていた。与えた種がかすかにひび割れたものだったことに、責任を感じているといった口調だった。声を出せない葉名は実際、ほとんど役に立たない。作物を産み出すことも、人を癒す歌を響かせることもできない。
「いえ、わたしは満足です」
悲しそうな輝夜に、けれどアオジは本心からそう告げていた。自分は本当なら葉名を作ることすら許されぬ身だ。それが特別な温情から種を与えられ、こうして一族の者と同じく自分だけの葉名をもてたのだ。ひとえに春の家の当主・月水と、輝夜の心根の優しさによる施しだった。それが何よりうれしい。……それに分かってもいた。輝夜はあのとき、わざと割れ種を選んだ。月水の用意していた白い小皿の種ではなく、わざわざ自分の持っていた小袋からアオジに種を与えたのだ。そこにどういう意図があったかはわからない。けれど輝夜はもっとも信頼できる姉のような存在で、彼女のすることに悪意があるとはどうしても思えなかった。
ж ж ж
陽菜を産み出してから半年の間、アオジは彼の教育に力を注いだ。自分より年上の姿で産まれた陽菜は、この世のことを何も知らず、心は幼く子どもじみている。文字の読み方、人としての生活の仕方、春の家のことから音楽のことまで、アオジは普通の葉名が知るべきことを不足なく伝えてやった。
「あれを見なよ」
うららかな昼さがりに、アオジは陽菜を連れて野原に座っていた。眼下には遠く春の家の治める領地と、手前には実り多き田畑、春の住まいである木組みの巨大な屋敷が見えている。アオジが指さしたのは、春の住まいの左にある、高い木組みの塔だった。陽菜はいっこうに音の出ない横笛に息をふきこむ作業を止め、顔を上げる。
「ほら、あの塔のてっぺん。光ってるだろ?」
陽菜はじっと塔を見ている。どんぐり形に丸い目が、なにかを見つけたように細くなる。塔のてっぺんには丸く大きな鏡が取りつけられていて、それが煌々と白く光っていた。日光の反射ではない。ひとりでに輝いている。
「今宵は主上がおみえになるんだ。だから光ってる。塔にはまだお前は呼ばれないけど……行ってみたい?」
陽菜は不思議そうにアオジを見た。彼は自分の立場も、葉名としての役割についてもまだ知らない。アオジは彼を傷つけないように、慎重に言葉をえらんだ。
「いいかい。君たち葉名のお役目は作物を産み出し、音楽を奏でるだけじゃない。一番大事なのは、主上から種をもらうことだ。君たちの源となる種子を──、主上はあの塔の中で、気にいった葉名に種をお恵みくださる。それを春の家の禰宜がつかって、土地を潤したり君たちを作ったりして、領地を支えているんだ。わかるね?」
陽菜はぼんやりと首を傾げた。目の前に白いちょうちょがやってきて、そちらの方に気をとられている。
「陽菜。ちゃんと聞いて」
むっとしたのを察したのだろう。陽菜は「怒らないで」という風に肩を落とした。陽菜は喋れないぶん表情が豊かだ。風にあおられた前髪をそっとよけてやると、子犬が甘えるように目を細める。アオジは陽菜のことを本当の弟のように感じていた。春の家の人々は優しいが、自分とは血のつながらない他人だ。その点、陽菜は自分の中から産み出された。自然と近しく家族のように感じてしまう。
「陽菜。きみが他の葉名たちと同じように、あの塔に呼ばれることがあるかはわからない。でも呼ばれない方がいいかもって、最近では思うことがある。きみは他の葉名とは違うんだし、このままでもいいのかも」
塔の中で何が行われているのか、アオジは知らない。それはなにも自分だけではなく、春の家の全員が知りえないことだ。大まかに中で行われていることはわかる。この世の神たる主上は満月の夜、あの塔に降りてくる。すると春の家の禰宜たちは、自らが産み出した葉名を塔の中へ送り出すのだ。葉名たちは塔で主上と会い、種をもらい帰ってくる。きんちゃく袋いっぱいの種を持ち帰る者もいれば、数年以上なにももらえない葉名もいる。春の家の禰宜たちはその種を使って、土地に食べ物を作り、葉名を増やして労働力を得ている。種は限られた場所に雨を降らせたり、人々の病を癒したりもできる。人々の生活に不可欠な恵みであり、春の領地とは切っても切り離せないものだった。だから満月の夜になると、大量の葉名たちがあの塔へ送り出されるのだ。
塔から戻ってきた葉名たちは主上のことを一切語らなかった。隔離された塔の中で、人ならざる者たちは何かを行っている。中でいったい何が行われているのか、アオジは一度だけ輝夜に聞いてみたことがあった。輝夜は苦笑し、「それは私も知りたいけど」と、自らの葉名のむらさきを呼び寄せた。
「ねぇ、むらさき。あなた、塔の中から先日、種を持ち帰ってきたでしょう。主上とは会えたの?」
むらさきはそれまでにこやかに控えていたが、輝夜の問いに目を瞬かせると、ぴたりと静止した。口もとにうすい笑みをはりつけ、黒目を三日月形にしたまま突っ立っている。
「ねぇ、むらさき。私の言っていることがわかる? これはなに?」
輝夜がかざしてみせたのは、手元にあった筆だった。
「筆です」むらさきが穏やかに答える。
「そう、筆よね。たとえばわたしがこの筆で主上にお手紙を書く。それをあなたに託したら、主上はお読みになるかしら?」
むらさきは黙りこむ。
「むらさき。そこにある半紙をとってちょうだい」
「はい」
静かに笑んだむらさきは、自然な動作で輝夜の前に真新しい半紙を置いた。
「宛名はなんと書けばいいのかしら。主上とお呼びしていいの?」
むらさきは答えない。ただうすく笑み、固まっている。笑っているはずなのに、黒目の焦点が合っていない気がして、横で見ていたアオジはぞっとした。葉名は産み出した人間に忠誠を誓うものだ。甘えたり行いをいさめてくることはあっても、決して人に逆らわない。けれどこのとき、むらさきは明らかに輝夜に逆らっていた。問いには答えず意志疎通も拒否し、人よりもずっと上位の存在、神たる主上に従う姿勢を明らかにしたのだ。
「ほらね」と輝夜は肩をすくめていた。「聞いてもむだなの。お父様に尋ねても『なにも知らない』の一点張りで。あの塔のことと主上のことは、誰に聞いてもわからない」
知らない方がいいのかも、と輝夜は言っていた。人ならざるものに情をよせ、近づきすぎるのはよくないことだと。けれど、アオジは陽菜に肩入れしている。実の弟のように可愛がっている。彼を塔へ送ってむらさきのような反応をされたら、どうすればいいのだろう。輝夜のように「仕方ない」と諦められるだろうか。これは人ならざる者だからと、理解できないことをそのままにしておくのか。塔の中で何が行われているのかも知らないのに、陽菜を危険な目にあわせるかもしれないのに? わからない。葉名たちのことですら理解できないのに、神たる主上にまつわることなんて、さらに推し測りようもない。けれどそれなら、陽菜はこのままでもいいとアオジは思うのだ。
陽菜は塔をじっと見つめていた。怪訝なものでも感じたように、鼻をひくつかせている。
「陽菜、あの塔に近づいちゃいけないよ。できるだけそばにいて」
陽菜は戸惑ったようだが、それでも頷いた。こちらの心配と憂いを表情から読み取ったのだろう。大丈夫という風に何度も頷いている。陽菜は素直で優しい。懐から横笛を取り出し吹こうとするが、何度息を吹いても音はひとつも鳴らなかった。アオジは彼の手から笛を取り、「もういいよ」と笑ってやる。声が出せないなら、葉名らしく楽器で音楽をと思い練習させてきたが、主上に会わないのなら春の面々に気に入られようとしなくてもいい。笛をとりあげられた陽菜はすこしだけしゅんとしていたが、すぐに野原のシロツメクサで指輪を作りはじめた。花茎を重ねて長い首飾りを作ろうとしている。黄色い蝶が横切り、陽菜は視線で蝶を追いはじめた。捕まえようと野をはねる姿を、アオジは寝転がって眺めていた。とても平穏だった。春の家に種の恵みは多い。土地は潤っているし、人々は親切だ。花咲き誇り、豪奢な絹の紗幕にくるまれるような生活だった。こんな快適な暮らしがいつまでも続くのだろう。何の根拠もなくそう信じていられるだけの豊かさが、春の風には色濃く満ちていた。
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