第106話 証言
日没の鐘が鳴り響いていた。疲れた体を引きずって工房に戻ると、机の上に紙があった。従業員の名簿の提出を催促する伝言だ。組合の事務員が来たらしい。ジャンニはそれを丸めて捨てた。
警察長官はジャンニの労をねぎらい、ダミアーノの取調べは早朝に行われるから今夜はゆっくり休めと言った。
もちろん休んでなどいられない。
レンツォはラーポを工房に連れて来ることになっている。途中で問題が起こらなければ、もう戻ってくる頃だろう。
足を伸ばして膝をさすった。これからすることは分かっているのに、なぜか落ちつかない。
レオナルドが裁判の関係者を殺しているというパゴロの主張には、どうも釈然としないものがあった。教区司祭やアレッサンドラが語る純朴な青年の像と、ライモンド・ロットの喉を切り裂く男の像は、頭の中でうまく合致しない。ヴォルテッラの牢獄でそう変わってしまったのかもしれないが。
彼が素性を偽ってサン・ドメニコの農場に住んでいるのかどうかはまた別の問題だ。それについて話す時間もたっぷりあるだろう。
ときどき帳場を見やった。レンツォはまだ戻らないのか。遅い。時間がかかりすぎている。うまくいっていないのだろうか。性交体位素描集をぱらぱらめくった。だが、胸に広がるのは漠とした不安ばかりだ。
何がいけなかったのか。
彼を農場に行かせたことか。戻って来ないのは気がかりだが、心配するほどではない。自分のやることを、レンツォは分かっているはずだ。闇の中、追い剥ぎが出没する丘陵を突っ切ってフィレンツェに戻るのはやめ、飲み屋で一晩明かすことにでもしたのだろう。案ずる必要はない。
立ち上がって作業台の周りをうろうろした。注文書の整理に取りかかった。いつもは徒弟に任せている仕事だ。案の定、全然はかどらなかった。全部くしゃくしゃにして引き出しに突っ込んだ。
どうも引っかかるのはなぜなのか。
レオナルドの裁判文書が頭に浮かんだ。何か見落としたものがある。ふと妙に感じたものの、供述の内容に気をとられ、重要ではないと判断して脇に退けたものが。書類はもう手元にない。何が書かれてあったかを思い出そうとした。
帳場から話し声が聞こえた。こういう時に限ってうるさい客がやってくるもんだ。訪問者の声は憤りを帯びている。リージが顔を出した。
「親方、組合の人が……」
「いないって言っとけ!」
ノーラの証言が頭に浮かんだ。かつてレオナルドの一家の隣に住み、仲が悪かったという女だ。彼女の言葉を、ジャンニは重要視していなかった。悪意に満ち、名誉を損ねる目的で言ったとしか思えない言葉に戸惑っていたからだ。
――家族揃って評判はよくありませんでした。
それは本当なのか。教区司祭は、皆いい人だったと言っていた。レオナルドについて証言を求められたなら、彼の事だけ話せば足りるのに、ノーラはなぜ家族にまで言及したのだろう。
――レオナルドのことは幼い頃からよく知っています。陰気で、何を考えてるのかよく分からない子どもでした。父親の仕事を習っていましたが、覚えが悪く、泣いてばかりいました。家を追い出されたあと傭兵隊に入った、あの粗暴で馬鹿な兄のように……
レオナルドには兄がいた。
ジャンニは椅子から立ち上がった。気がはやり、膝の痛みも感じなかった。
サンタ・フェリチタ教区の司祭ともう一度話さなければならない。
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