第95話 手紙

〈黒獅子〉亭は上層市民も出入りする居酒屋だ。一歩入ると、獅子の紋章がぱっと目を引く。午後だからか、客はあまりいない。



 *



 ラウラのことを考えた。


 彼女は嘘をついていた。

 

 だから何だ。


 信じ込んでそれに固執したのはおれじゃないか。


 周囲の話に冷静に耳を傾けていれば、分かったはずだ。なのにそうせず、八人委員会を見返そうとやっきになり、彼女の話だけにこだわった。


 ラウラだって、警察を動かせると本気で思ってあんな話をしたのではないだろう。仮に捜査が行われたとしても、彼女の話は信憑性に欠けるとされ、すぐに退けられていたはずだ。リドルフィやラプッチら上位の官僚にかかれば、作り話はただちに見破られる。



 *



 店の奥から男が現れた。この居酒屋の主だ。いつも肩まで袖をまくって腕の筋肉を誇示している。レンツォが面倒を運んで来たのを一目で見抜いている顔だ。


「ここには旦那の興味をそそるものはないと思いますがね」


「あるんだ。1カ月前、ランフレディ家の男がここで騒ぎを起こしただろう」


「その事なら、もう八人委員会に全部話した。1カ月も前だぜ。あんたが今さら嗅ぎまわるようなことじゃない。もう片がついてる事件だろう」


「片はついてない。マウリツィオはなぜ暴れた? あの男と評議員の間に何があった?」


 店主は見るからにレンツォをつまみ出したがっていた。しかし警察相手に手荒な行動に出るわけにもいかず板挟みになっている。


「場所はあそこだ」


 暖炉に近い上席だった。獅子が描かれた旗と、球技会での戦勝を讃える青銅の盾が飾ってある。


「あの晩、マウリツィオを見て、パゴロは席から立とうとした。昔の友人に挨拶でもするつもりになったんだろう。だが、マウリツィオのほうはそうじゃなかったんだな。おれが止めなかったら、パゴロは神に召されてたところだぜ」


「あの男はどうしてパゴロを襲ったんだ」

「そんなこと、おれが知るかい」

「あんた、親しいんだろ?」


 八人委員会の調べによれば、パゴロもマウリツィオもこの店の常連だ。


「ひいきにしてもらってる。だが、それだけだ。親しいわけじゃない」


「手紙はどうなった?」

「知らんね」


 妙だ。普通なら、手紙とは何のことか、誰の手紙なのかと質問するのではないだろうか。


「マウリツィオは手紙をパゴロに突き付けて裏切り者と叫んだ。あんたもその場にいたんなら見ただろう」


 店主は青銅の盾を眺めて、埃を払った。

「いや、見てないな」

 戸口から人が入ってきた。そちらを見て、彼は言った。

「あの2人はあんたに用があるみたいだが」


 八人委員会の兵だった。どちらも見知っている顔だ。


「レンツォ、あんたに逮捕命令が出てる」


 あの骨董屋、思ったより早く口を割ったな。


 自分から両手を前に差し出し、おとなしく縛られた。両側から腕を掴まれて外へ出た。



 *



 八人委員会がまとめた事件の調査報告では、マウリツィオは左手でパゴロの喉に手をかけ、短剣で斬り付けたとなっている。一方、店の主人は手紙の事に触れていない。八人委員会では誰もそのことに疑問をもたなかったのだろうか。


 マウリツィオに楔を打ち込んでやることはできない。じきに職場から追い出されて、リッポが言った通り、腕の1本くらい失うことになるのは目に見えている。だったら自分に代わって他の誰かにやってもらうしかない。


 若いほうの兵に腕を引っ張られた。


「さっさと歩け」

「小便したいんだ」


 レンツォは壁の方を向いた。右側の若造が手を放すまで待ち、間合いを詰めて腹に肘を叩き込んだ。くぐもった呻き声が上がり、兵は地面にくずおれた。


 もう1人が追いかけてきた。体当たりをかけられ、もつれあって倒れた。


 数日前、市場で、ルカがどうやって逃げようとしたかを思い出した。レンツォは道に落ちている馬糞を掴んで、相手の顔に塗りつけた。中年の兵は罵声を上げて自分の顔を掻きむしった。その体の下から這い出して走った。


 八人委員会はある事実を見逃しているし、〈黒獅子〉亭の主人は嘘をついている。


 そのことに今、関心を示しそうなのは1人しかいない。

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