第94話 嘘

 ラウラは留守だった。レンツォは階段に座って、〈黒獅子〉亭の事件の調書を眺めた。殺人事件の記録と一緒に、記録保管庫から持ってきたものだ。


 八人委員会の調査内容と、現場にいた複数の証人の供述がごちゃ混ぜになっている。証人は、居合わせたらしい客、さらにドメニコ・ディ・ヴァンニという男だった。〈黒獅子〉亭の主だ。


 目を通しているうちに、疑問が頭の中で形をとった。



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……サン・シモーネ教区在住のマウリツィオ・ランフレディは、殺意をもってサン・マルコ教区在住のパゴロ・ボンシニョーリを攻撃した。……


1545年8月7日、金曜の18時、彼は抜き身の短剣を手にサンタ・チェチリア教区にある居酒屋〈黒獅子〉亭へ行き、知人と飲食をしていたパゴロに近づいた。


「裏切り者、貴様がどんな人間か分かったぞ。こんな手紙でおれを脅せると思ったか?」


そう叫び、マウリツィオは左手をパゴロの喉にかけ、短剣で斬り付けた。


この時、もし近くにいた数人の男が止めに入らなければ、彼は確実にパゴロを殺害していたであろう。……



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……マウリツィオは左手に紙切れを握りしめていました。書簡に見えました。それをパゴロに突き付けて彼を裏切り者と呼び、マウリツィオは短剣を振り上げました。周りの人が驚いて立ちあがり……



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……マウリツィオが現れたのは、ちょうど子羊の肩肉を出した時です。彼とパゴロは、いつもは居合わせても挨拶をしませんが、この日は少し様子が違いました。彼がパゴロに怪我を負わせようとするのを見て、私は止めに入りました。すると彼は短剣を持ったまま私の襟を掴み、邪魔をするなと言いました……



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 考えを巡らせた。


 マウリツィオは、報復には人を雇う。本人が騒ぎを起こしたのは、この〈黒獅子〉亭だけだ。この時だけ、彼は我を忘れ、人が見ている前で相手を攻撃した。


 こいつらの間に何があったんだ?


 戸が開いてラウラが入ってきた。衣類の包みを両手に抱えている。

 何を言うかは考えてあったのに、彼女を前にするとうろたえてしまった。


「告訴を取り下げたのか?」

「あなたに関係ないでしょ?」

「取り下げたのかと聞いてるんだ」

「そうよ、取り下げた」

「なぜ?」


 彼女は桶の中に衣類を放り込んだ。


「強姦されたっていうのは嘘なのか?」

「嘘じゃない!」


「なら、どうしてあんなことを八人委員会で言った? なんで庇うような真似をした?」


「構わないで。あなたに関わりないんだから」


「関わりはある。おれが奴をしょっぴいたんだから。でも八人委員会はすぐ釈放しちまった。パゴロが和解に応じたからだそうだ。示し合わせたように君も手を引っ込めたのはどうしてだ」


「もう関わりたくないの。お願いだからそっとしておいて」

「金をもらったのか」

「もらってない」

「なら、なぜだ? あいつを憎んでるんじゃなかったのか。殺してくれって言ったじゃないか!」


 やはり彼女はマウリツィオと通じていたんだ、レンツォはそう思った。それで何もかも説明がつく。


「奴の家へ行ったな」

「それがどうしたの?」

「また奴と寝たのか?」


 頬にいきなり平手打ちが飛んできた。


「よくもそんなことが言えるわね。あんたもあいつらとおんなじ。力に物を言わせないと何にもできない卑怯者。死んでほしいかって? ええ、死んでほしいわよ。殺してほしい。ずたずたに切り刻まれればいい!」


 近づこうとすると、押しのけられた。彼女は桶を抱えた。

「出てって。今すぐ」


「どうして訴えを引っ込めたのかだけ教えてくれ」


「母を寡婦の家から追い出す、ってピエロに言われたの。それだけじゃなく、どの施設にも入れなくなるって。どうすればいいか分からなかった。だから言う通りにした」


 ラウラの弱みは金ではなく、母親だった。金を見せなくても、ピエロは彼女を思い通りにできた。頼れる男の親族がいない彼女の立場は弱い。圧力をかけて母親を今の住まいから追い出すのは簡単だろう。


「でも今朝、追い出された。荷物をまとめて出てってほしいって。あの男は結局約束を守らなかった」

「ピエロの家に行ったのは、その話をするため?」


 自分と母親を養うために働くのは今の彼女には無理だ。


「話してくれればよかったんだ。そんなことさせない。おれが許さない」


「あなたにどうにかできるとは思わない」


「できる。マウリツィオはエネア・リナルデスキを殺して大聖堂に吊した、と自分で言ったんだろ。それを八人委員会で証言しろ」


 本人がそう話すのを聞いた、とラウラは言っていた。殺し方は異様だが、〈黒獅子〉亭の時のように激昂して殺害に及んだと考えれば説明はつく。


「嫌」


「密告しても、ピエロには分からない。八人委員会は情報提供者の名前を洩らさない。知ってることを話せ。そうすれば奴を潰せる」


「私は行かない」

「ラウラ……」

「あいつはそんなこと言わなかった」


「殺して大聖堂に吊してやるって、あの男が言うのを聞いたって言ったじゃないか」

「あれは嘘だったの。だから八人委員会には行かない」


 嘘だった。


 目の前で、ラウラは言っている。しかしそれさえ本当かどうか分からなかった。何一つ信じられなくなっていた。


「どれがほんとの事なんだ?」

「あの時は嘘をついたの。あいつを破滅させてやりたかった。だから、そういうことにすれば、あいつは捕まって死刑になると思った」


「リドルフィがあの話を真に受けてたら、あんたは取調室で裁判官相手に申し開きさせられてたんだぞ。強姦はなかったと嘘を言って、さらに作り話でマウリツィオを陥れようとした、なんてことがばれたらどうなっていたと思うんだ!」


「私なんかどうなってもいいのよ!」


 ラウラは階段を駆け上って、扉をばたんと閉めた。

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