第92話 サン・ニコーラ施療院(2)

 記憶では、この施療院は北部にあるもっと大きな孤児院への併合がすでに決まっているはずだった。建物は古く、修繕の必要な箇所が目立つ。取り壊しが近いのだろう。どこも寒々として生気がない。


 狭い室内にベッドが並んでいた。寝ている人はいない。白い壁に木製の十字架がかかっている。


 死の臭いがした。誰にでも、いつか訪れる死の臭いが。身震いし、ジャンニは通路を先へ急いだ。



 *



 中庭に出た。付属礼拝堂の鐘楼が見え、石畳の向こうに井戸がある。孤児や貧者が大勢住んでいた頃、この井戸の支柱には洗ったばかりの衣服や布が大量に干され、風に乱されていたに違いなかった。


 ジャンニは桶を引っ張った。錆びついて動かなかった。手を放すと、滑車がはずれて縄ごと落下し、下の水面に打ちつけられる音が響いた。


「陰気臭いったらないな。こんなとこに押し込められるのは真っ平だよ」


 風雨にさらされた石の塊が置いてあった。ジャンニの背丈ほどの高さがある大理石で、粗く削られている。どうやら、幼子を抱く聖母の像だ。彫り込む部分に印がつけてあるが、何らかの理由で中断し、放置されたらしい。


 レオナルドがどこの工房で働いていたかは分からないが、親方のために彼がやっていた仕事とはこれのことだろうか?


 ジャンニは塊をじっと見つめた。どこかで見たような気がするが、さっぱり思い出せない。


「おい、あんた!」


 箒を持った中年の男が憤然と向かってくるところだった。


「桶を落としたんじゃないだろうね? 滑車を修理しなけりゃならんのに、のろまな管理組合のせいで手がつけられなくってね……やつらは何をしてるんだか。大聖堂を修理する金はあるのに、ここの備品1つ直してくれないときた」


「あんたはここで働いてるのかい?」

「そうだ。あんたは管理組合の人?」

「いや。彫金師のジャンニ・モレッリってもんだ」


 男は、この施療院の雑役係だと言った。


「ここはおんぼろでね。今じゃ年長の子と、病気の婆さんが1人いるだけだ。昔は子どもの声でうるさいくらいだったのに。日曜日には、どこぞのご婦人がきて、慈善で読み書きを教えていたんだよ」


「いつからここで働いてるんだい?」

「10年かそこいらだな」

「なら、レオナルドのことも知ってるだろう」


 雑役夫は箒の柄についている小さい虫をつまんで捨てた。


「レオナルド?」

「アントニオ・ラウジの息子のレオナルドだ。8年前、この施療院の中庭で八人委員会に逮捕された」


「あのレオナルドか! 覚えてるよ。組合の依頼で、石像を彫る仕事をしてたんだ。ほら、それだよ」


 彼は未完成の大理石の塊を指さした。


「まだ30歳にもならない若手だったが、腕はよさそうだった。親方や他の若いのと一緒に毎日きて、孤児に囲まれながら仕事をしてた。雨に濡れないよう、屋根を作ってね」


「レオナルドはどの親方についてたんだ?」


「さあ、覚えてないな。もともと彫金師の工房にいたが、彫刻も習い始めたんだと言ってたな」


「レオナルドが彫金を?」


「そう。移り気な若者だったんだよ。2つの工房で働いたんで、親方同士は揉めていた。連行されたのも、最初はそれが原因なんじゃないかと思ったほどだ」


「なんでまた、彼は公爵を殺そうなんて考えたんだ?」


「さあね。そんなことをする男にゃ見えなかったけどね。いきなり兵が押しかけて来て、レオナルドはびっくりしてたが、おとなしく連行されてった。それっきり戻って来なかった。その後、組合との間で喧嘩がもちあがり、ほれ、石はほったらかしだ」


 レオナルドは彫金をやっていた。ならば、使う頻度は多くないにしても、金含有率を調べる際に使う薬品の知識はあったかもしれない。エネア・リナルデスキの、金の純度が高い指輪を溶かしたのは、ほぼ間違いなく濃硝酸と濃塩酸の混合液――王水だ。


 しかし、ヤコポとエネアの2人をレオナルドが殺せたはずがないのだ。彼は有罪判決を下された後、死ぬまで投獄されると決められ、フィレンツェから遠く離れたヴォルテッラに送られている。

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