第88話 Rの正体

 その店はサン・ロレンツォ教会の斜向かい、小さな商店で賑わう通りの中程にある。


 内部は、ジャンニの記憶にあるのと変わっていなかった。葡萄酒樽を並べて作った簡素な棚があり、マヨルカ焼きの皿が飾られている。アーチ型の通路の奥には厨房のかまどが見える。


 人がいた。椅子に座ってぼんやり床を見つめている。レンツォだった。二晩か三晩寝ていなさそうな顔だ。


 ここは彼の家がある建物だ。いなくなったと聞いて居所を探るために来たのだが、本人を見つけるとは思わなかった。


「お前さんについて、よからぬ話をいくつか聞いてきた」


 ジャンニはテーブルについて煮豆の皿に手を伸ばした。


「どうせなら、あの骨董屋を殺しときゃよかったのに、スペイン人どもじゃなくて。八人委員会は今……」


「言われなくても、知ってる」


「あれ、だったら何でこんなとこにいるんだ。もうヴェネツィア辺りまでとんずらこいたと思ってたけど。犬みたいに隠れたって無駄だぜ」


「そうだな」


 おや? ジャンニは訝った。突っかかってくると思ったのに。


「あの骨董屋がお前さんを売るのは時間の問題だ。八人委員会と取引する材料をそんなに持ってないだろうから。奴は、自分の店にあったのが警察の押収品だなんて知らなかったって言い訳する。でも、誰がそれを持ち込んだかについては進んで白状し、刑を軽くしようとする」


「だろうな、義理立てする理由なんかないんだから」


「お前さんを助けてはやれないけど、1つ聞いてほしいことがある。昨日、ライモンド・ロットの家に賊が入ったのは知ってるだろ? ヤコポやエネアを殺したのと同じ奴だ」


「ただの泥棒だ。盗みに入って、見つかったから殺した。そう聞いてる」


「いいや、最初から殺すつもりだった」

「どうしてそう思うんだ?」


「あの家の召使いが見てる。そいつはまずライモンドの喉を切り裂き、それから女たちに襲いかかった。ついでに言うと、頭巾付きの大きなマントを着てたそうだ。エネアの菜園でおれが見た男もそうだった。どういうことか分かるかい」


「同じ奴だって言いたいのか? けど誰も顔を見てないんだろ」


「ああ、でも間違いないんだ。ヤコポ、エネア・リナルデスキ、ライモンド・ロット。この3人には繋がりがある。襲われたのはそのせいだ」


「なんでそう思うんだ?」


「これ、うまいな」


 ジャンニは煮豆をゆっくり味わった。腹に物を入れるのは久しぶりのような気がする。


「1537年の2月15日、ヤコポは自分の日記に、Rと会って話した、と書いてる。エネアの名字はRで始まるけど、直前に『リナルデスキと会った』とはっきり書いてるから名前を伏せる必要はない。残るはライモンドだ――Raimondo Lottoライモンド・ロットだよ。彼は八人委員会の書記官だった。エネアは同じ時期、裁判官だった。ヤコポはこの2人から金を約束され、裁判で嘘の証言をした」


「ちょっと待て。頭巾付きのマントって言ったか? 大聖堂でおれが見たのもそいつだってことか?」


 大聖堂から逃げた男は、通路で行き会った若い警吏を刺して死なせている。その非情さがあれば、公爵の側近の喉を切り裂くのもためらわなかったに違いない。


「ああ、たぶんそうだろう」


「あんたがどうしてこんな話をするのか分からない。本当は八人委員会に言われて来たんだろ? おれに喋らせようとしてるんだろ? おれは今クソまみれなんだぞ。そいつを捕まえたいんだったらラプッチに言えよ」


「あいつ、最近口をきいてくれなくてね。わざとそっけなくしておれの気を惹こうとしてるんだよ」


 空になった皿を向こうへやった。黒い毛並みの犬が足元をうろつき、期待の眼差しで見上げている。


「トレッビオの事件で樽職人の息子を有罪にした3人に、この犯人は報復しようとしてるんだ。昨日はライモンドを亡き者にしようとした。けど、おれの徒弟がその場にいた。妙な騎士道精神を発揮して、ミケランジェロはそいつを捕まえようとしたらしいんだが、そのあと行方が分からない。嫌な予感がするんだよ。仕事にも出てこない。何もなけりゃいいんだが……」


「仕事したくないから出てこないんだろ」


「あの坊やは誰にも言わずにいなくなったりしない。若者だ、まだ17になるかならないかの。どうにかして見つけたい。それを手伝ってもらいたいんだ」


「おれには関係ない。帰ってくれ」

「今すぐ手を貸してほしいんだよ」


「うるさいな」

「バスティアーノが死んだのは、お前さんがそうやっていじけて膝を抱えてたからじゃないのかい」


「帰れって言ったんだよ! おれはあんたを牢屋にぶち込むことができるんだぞ」


 ジャンニはにっこり笑った。


「できないよ。お前さんはひ弱なコソ泥だけを脅していい気になってる、口先だけの腑抜け野郎だもの」


 椅子が音を立てて後ろに倒れた。ジャンニが胸ぐらを掴まれるのを見て、店の奥から人が走ってきた。手振りだけで下がらせ、ジャンニは言った。


「いいか、よく聞け、薄ら馬鹿。お前さんは自分をいっぱしの男と思ってる、立派な一人前の男だとね。けど、おれに言わせれば、ただの甘やかされたごろつきだよ。法のこちら側にいたけりゃ、誰彼かまわず殴りかかるのはやめろ。でないと今に派手な流血沙汰を起こして絞首台からぶら下がることになるぜ」


 力が緩んだので、ジャンニは喉元が楽になった。


「人をぶん殴るために給料をもらってるわけじゃないだろ? 骨董屋は何とかできるかもしれない。彼は脱獄には直接関わってないし、殺しに荷担したわけでもない。裏から手をまわして減刑をもちかければ、取り調べでお前さんの名前を出すことはないだろう」


「もう遅いよ」

「どうしてだ?」


「おれとベルリンゴッツォの名前を書いた紙をラプッチに見える場所に置いた、とリッポが言ったんだ。それが本当なら終わりだ。捜したけど見つからなかった」


 書記官がすでにそれを入手しているなら、次に話を通すべきなのは彼に命令できる立場の人物だ。つまり公爵しかいないが、彼はジャンニの頼みには首を縦に振らなさそうに思える。おまけに5千スクードの宝石を紛失したとなったら……


「食わないなら、もらうよ」


 ジャンニは工具を取り出し、炙り肉に突き刺した。尖った物を懐から出すなりレンツォがたじろいだのを見て、ジャンニは少し驚いた。


「手を貸してほしいって、何だよ?」

「残念だけど、誰かをぶちのめせってわけじゃないんだ。お前さんはそのほうが得意だろうけどね」

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