第89話 記録保管庫(1)
マルカントニオ・ラプッチが通りを歩いてきた。道にうずくまっている1人の男が、お椀の形にした両手で物乞いした。
ラプッチは立ち止まり、腰につけている鞄を開けた。
いつになく機嫌がいいらしい。あるいは人の目を意識したのだろう。今度の八人委員会書記官は衣服と装飾品に大枚をはたくのに、慈善の心を持ち合わせていない、宮廷の人々は彼をそう評価するかもしれない。宮殿の外でも気は抜けないというわけだ。
といっても、財布から出したのは銅貨1枚だけだった。彼が物乞いに銅貨を恵んでやるのを、レンツォは柱の陰から見ていた。
*
こんなことをするはめになったのは、あのくそ金細工師のせいだ。
記録保管庫に用があるというが、鍵がないならどうしようもないじゃないか。第一、厄介事には関わりたくない。
言下に断ると、ジャンニはしょんぼりした。肩を落とし、一回り小さくなったように見えた。年寄りのそんな姿を見るのは何とも居心地が悪かった。
リドルフィに事情を打ち明けて話を通してもらうことも考えたが、言いつけを放り出してフィレンツェに戻ってきている手前、顔を合わせたくない。
*
ひれ伏して感謝の言葉を述べている男を残し、書記官はその場をさっさと離れた。彼が宮殿に姿を消すと、物乞いの男は歩いてきた。
「やったか?」
返事の代わりに、ルカは鍵が数本ついている鉄製の輪っかをよこした。金を恵んでもらいつつ、懐から抜き取ったのだ。
もしラプッチが止まらずに通り過ぎようとしたら、ルカは立ち塞がってすがりつくことになっていた。そのほうが仕事しやすいだろうとレンツォは考えていたので、書記官がすぐに財布を出した時は少し不安になった。だが、難なくやってのけたらしい。
「お前、今、財布も盗っただろ」
ルカはにんまりした。
「けちな野郎だったからな。でも、慈善行為の何たるかをこれで学ぶだろうよ」
*
鍵束を受け取り、レンツォは警察長官庁舎へ向かった。鍵と財布をすられた事実に、ラプッチはすぐには気づかないだろうが、時間はあまりない。通用門をくぐった。
守衛が近づいてきた。
「あんた、大丈夫かい?」
「ああ」
「具合が悪そうだぜ」
「大丈夫だ」
「話は聞いた。バスティアーノのことは残念だ。みんな彼のことは好きだった」
ガブリエッロが向こうで立ち話している。レンツォはこっちへ来いと合図した。
「奴の有罪を期待してる。あんたもそうだろう」
「奴?」
守衛は声をひそめた。
「あのランフレディ家の男だ。いい家柄の男も不品行で宮廷から追い出される時代なんだから、公爵は奴のことも罰するべきだ」
全てが終わったあと、けりをつける時間がどれくらいあるだろう?
*
輪っかには鍵が複数ついていた。どれが家の鍵で、どれが保管庫の鍵なのか分からない。順番に試すしかない。1本を選んだ。鍵穴の形が違っていた。ガブリエッロは落ち着かない顔だ。
「何してるんですか?」
「見りゃ分かるだろ! 人が来ないか見張っててくれ」
次々に試した。どれも形状が合わないか、回らない。合致する鍵を書記官が持ち歩いていない可能性は考えていなかった。残るはあと3本だ。全て合わなかったら……
「あの、誰か来ますよ」
レンツォは1つを差し込んだところだった。とっさに引いた。抜けない。奥で引っかかっている。
八人委員会の財務管理官が通路を歩いてきた。
書記官の下にいる中級官僚だが、クソ野郎度はラプッチに劣らない。目を合わせないようにした。背中に隠せば、刺さった鍵と鍵束は見えない。
もじもじして扉の前に立っている2人を、財務管理官は不審そうに見た。が、何も言わずに通り過ぎた。下っ端の警吏などに関わっている暇はないというわけだ。
慎重に押したり引いたりして抜いた。次の鍵で扉は開いた。
中に入り、腹いせに椅子を思い切り蹴飛ばした。どうしてあの金細工職人のためにこんな所まで来ちまったんだ?
あんな老いぼれの言うことなんか真に受けちゃいられない。八人委員会に働きかけるなんてのも出任せだ。うまくいくはずがない。
中は暗くて黴臭かった。何となく陰気で、暇なときに話相手を探す以外はなるべく近づかないようにしていた場所だ。
*
ジャンニは手がかりを与えていないも同然だった。1537年にムジェッロの山中で起きた殺人事件に関する記録を見たいとのことだったが、彼はそれがどこにあるか知らず、その辺に置いてある、としか言わなかった。
――まあ、見ればすぐ分かるよ。
口にくわえた鶏の骨を上下させながら、ジャンニはのんきにそう言っていた。
――昨日の夕方見たばかりだから、まだ元に戻されてないだろう。ちゃちゃっと終わらせちまえ。分かってるとは思うけど、くれぐれもラプッチの野郎に見つかるなよ。
ところがどうだ? 書類は山ほどあり、どこを捜せばいいのかさっぱりだ。
レンツォはまた通路に出て、職員が大便の用を足すための穴に鍵束を捨てた。
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