第87話 保管庫の鍵

 すべての覚書に目を通し、ジャンニは考え込んだ。


 口腔と死体の周囲から見つかった銅貨は56枚。偶然ではない。それは、ヤコポがエネア・リナルデスキから受け取るはずだった金を暗に示している。

 

 ヤコポは八人委員会で偽証した。だから、彼を殺した犯人は銅貨を口に詰め込んだ。


 嘘をついたその口に。


 散らかり放題の作業場を見ていると、駆け出しの職人だった時代が思い出された。

 ろくでなしの親方に殴られながらこき使われ、やっと独立した頃のことだ。もう何十年前だ? あの頃は必死で何でもやった。自分の工房を持てたのが嬉しくて仕方がなかった。フィレンツェ一の彫金師になってやろうと思ったものだ。


 それが今じゃどうだ、注文はほったらかし、客には愛想を尽かされ、5千スクードの宝石のために投獄されようとしている。落ちぶれるってのはこういうことだ。老いぼれるのではなく。


 ヤコポも同じような気持ちだったかもしれない。


 エネア・リナルデスキとの間に取り交わした56スクードの約束は、偽証の報酬としては破格だ。ヤコポは生活に困っていた。金が欲しかった。自分の嘘の証言で誰かが不幸な境遇に陥っても、そいつの運が悪かったのだと思うことにし、目と耳を塞いで忘れてしまおうと努めただろう。


 逮捕されたレオナルド・ラウジという名の下手人について、彼は覚書のどこにも書いていない。そればかりか、友人だったピエトロの死についても沈黙している。八人委員会で彼がどんな証言をしたのかは記録を見なければ分からない。


 ライモンドが襲われた時、ミケランジェロが何かを見たか、不測の事態が生じたのは間違いないように思えた。それを確かめるには、まず関係者を殺しているのが誰なのかを突き止めなければいけない。



 *



 ジャンニは警察長官庁舎へ向かった。今度はつきがあった。誰にも邪魔されずに通用門をくぐり、回廊から中に滑り込んだ。


 記録保管庫は閉まっていた。


「チェスコ、いるかい?」


 誰もいないらしい。守衛が角を曲がって歩いてきた。咳払いし、ジャンニは言った。


「文書係助手はどこかね?」

「まだ見てないな。そういや、今日はどっかで用事があるって言ってたよ」


「午後の会議で、保管庫の中の記録が必要になったんだ。ここの鍵はどこにあるのかな?」

「鍵なら書記官が持っている。ところで、あんたはジャンニだろう。裁判官を解任になったはずじゃ――」


 ジャンニは守衛を置き去りにしてその場を離れた。取調室には誰もいなかった。なぜか机が横倒しになり、調書が床に散乱している。思わず、転がったままの机を蹴飛ばした。

「裁判官の連中はどこにいるんだ、え? ろくでもない会合には集まるくせに、必要な時に居やがらないんだから」



 *



「トニーノ、ちょいと頼みがある」


 厄介事の気配を察知したか、下級役人は警戒の表情になった。


「トレッビオの事件の記録をもう1回見たいんだが、保管庫に鍵が掛かってるんだよ。口実を作って持ち出して来てくれ」


「まだあの事件の事を言ってるのか? なんでまた――」


「ジャンニ・モレッリ親方が入り用だと言ったら入り用なんだよ、トニーノ。詳しいことは話せない。チェスコはどっかに出かけてる。頼めるのはお前さんしかいないんだ」


「あそこの鍵を持ってるのは、書記官の他には文書係の爺さんだが、先月からピサに出向いてる。つまり、ラプッチの許可がなけりゃ開けられないってことだ。それに……妙なことをやってばれたら、ただじゃすまないよ」


「なんとか頼むよ。終わったらすぐに返すから」


 下級役人はためらい、首を横に振った。

「おれは職を失いたくないんだ」


 ジャンニは彼が貧しい肉屋の息子なのを思い出した。雑用係とはいえ、警察長官庁舎の職にありついたのは、人生でまたとない幸運だったろう。免職になれば、出世した親戚でもいない限り、どこかの工房で下働きか材木運びでもやるしかないのは目に見えている。


「分かった。悪かったよ、トニーノ。忘れてくれ」 

「それより、レンツォを見なかったか?」


「いいや、見てないけど」


「公爵が組織した隊と一緒に北へ行かされたんだが、行方をくらました。一緒には戻って来なかったらしい」


「それがどうした? そのうちに戻るだろう」


「あまり戻りたくない状況だと思う。あいつは庁舎の倉庫から押収品をくすねてベルリンゴッツォに横流ししてたんだよ。ついさっき、それらしい物品が骨董屋の棚から見つかった」


「手癖の悪い役人なんか、探さなくてもそこらに大勢いるだろうに。ラプッチはそんなことに執心してるのか? ライモンド・ロットの首を切り落とそうとした犯人はどうした?」


「そっちは手詰まりだ。精力的に働いてるとこを公爵に見せないと立場が危うくなると考えたんじゃないか。一緒にサン・ドメニコに行った連中によれば、レンツォは農場の男をぶん殴り、その後いなくなったそうだ。どこに行ったのか誰も知らないらしい」

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