第79話 寡婦の決意

 ジャンニは工房に戻った。


 溜まった仕事をどうにかしなければいけないが、手をつける気が全く起こらなかった。床のゴミを眺め、炉の灰をつつき、くしゃくしゃの紙を拾って手で皺を伸ばした。店の前に人が来た。誰であろうと追い払ってやるつもりで、ジャンニは顔を上げた。


 目の前にいたのは、ヤコポの妻だった。把手つきのカゴを下げ、蓋が風で飛ばないように片手で押さえている。


「やあ、どうも……」

「あまり時間がないんです。義弟には教会へ行くと言ってきましたから」


 囁くような声で、未亡人は言った。

 ジャンニは訝った。いったい何の話だ? 


 女はカゴから何か取り出した。

 本が数冊と、折り畳んだ紙の束。


「これを持ってきました」

「何だい?」


「うちの人がとっておいた手紙です。手紙を見たいっておっしゃったでしょ。義弟が燃やしてしまったのは、ほんの一部なんです」


 未亡人の手は、わずかに震えていた。ジャンニは心苦しくなった。


「まだ知らないだろうけど、おれはもう裁判官じゃないんだ。これはラプッチに渡したほうがいいと思う」


「いいえ、あなたに持っててほしいんです。ラプッチさんは何もしてくれません。あなたなら、きっとあたしたちを助けて下さいます」


 ジャンニはまだ手を伸ばせずにいた。突然に信頼を寄せられ、うろたえてしまっていたのだ。


「あの人を殺した犯人を処罰してください。お願いします」

「おれがこれを読んだら、ヤコポの弟さんは不機嫌になるんじゃないかな?」


「あの弟が何て言おうと関係ありません。家の名誉に傷をつけるなって言ったけど、名誉が何をしてくれますか? あの人の代わりになってくれるんですか? そんなものどうだっていい。夫がなぜ死ななきゃいけなかったのか、あたしは知りたいんです」


 ジャンニは言葉に詰まった。


 ヴィート老人の話が本当なら、ヤコポは法廷で嘘の証言をしたことになる。殺されたのと無関係ではないかもしれない。それを未亡人に伝えるのは気が重いというものだ。


 そこまで考え、ジャンニはみぞおちを掴まれたような気がした。


 初めはエネア・リナルデスキにばかり気をとられていた。が、8年前の事件にヤコポやライモンド・ロットも絡んでいたとなれば、彼らが次々に襲われるのはそれに関わったせいだとしか考えられない。


「それを突き止めても、ご亭主は戻らない。それどころか知らないほうがよかったってことになるかもしれない」


「何があっても驚きませんわ。あの人が死んだことより悪い知らせなんかありゃしないんだから」


 ジャンニは束を押しやった。

「いや、奥さん、これは持って帰って箱にしまったほうがいい。悪いことは言わない。ご亭主の件はこのままそっとしておくべきだ」


「なんにも分かってらっしゃらないのね。あたしがどれほど噂を聞いたと思いますか? 中には耳を塞ぎたくなるようなのもあった」


 ヤコポの妻は束を押し返してきた。


「あの人が何か隠してたのは知ってます。それをこの先知らないままでいるより、どんな結果になっても知ったほうがいい。妻の身になって考えてみれば、あなたにも分かります」


 言うべき言葉が思いつかなかった。


 黄ばんだ手紙が十数通と、角がぼろぼろの本が3冊。手紙をどけて、1冊を手に取った。小さい文字で祈りの言葉が記されている。


「こりゃ何だい?」


「箱に、まとめてしまってありました。あの人は寝る前によくそれを開いて、何か書いてたようでした」


 覚書リコルディだ。


 たいていの商売人は日々の取引や雑務を覚書として文字に残そうとする。葡萄酒の運搬をしながら、ヤコポもそうやって毎日の出来事を書き綴ったに違いない。


 手紙は灰になってしまったが、もし彼が覚書に残していれば、エネアとの間に何があったか分かるかもしれない。


 手紙よりも頼りになる手掛かりだ。

 

 女は涙をこらえ、どうにか笑みをこしらえようとしていた。


「昨日あなたが帰った後、分かったんです。夫が死んでどうしていいか分からなくて、周りの言いなりになってたんだって。あたしはあの人の女房なんだから、あたしにしかできないことがあるのよ。あなたなら、誰が夫を殺したかを突き止めて下さいます。だからこれをお渡しするために来たんです」


「奥さん、きっとあんたに神のご加護があるよ」


 驚いたことに、心からそんな言葉が出た。


 ジャンニ・モレッリ親方の人生では滅多にないことではあった。

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