第3部 覚書

9 孤軍奮闘

第67話 惨劇の翌朝

 ヴィート老人は客に食べ物が必要だとは考えなかったらしい。与えられた寝床に、ジャンニは空腹を抱えてもぐり込んだ。


 マットレスは寝心地が悪く、片側がへこんでいた。体が床にずり落ちないよう、ジャンニは壁にへばりついて眠る努力をした。やっと寝ついたものの、今度は不穏な夢にうなされ、何度も目を覚ました。空が白む頃には体の節々が痛み、トレッビオの城へ行く意気込みはとっくに失せていた。


 年若い警吏は、ジャンニが揺すって起こすまでぐっすり眠っていた。



 *



 疲れた体を引きずって市内への道を辿ると、ピンティ門の税関に人だかりができていた。


 北部の村から農産物を売りにくる人々は、たいてい北のサン・ガッロ門を利用する。そのため、この門は通常ならそれほど混雑しないはずだった。

 

 ジャンニは妙な胸騒ぎに襲われた。いつもより警備兵の数が多い。税関検査を待っている農夫たちは不安げだ。


 農作物や荷車をかき分けて、ジャンニは兵に近づいた。

「何かあったのかい?」


「昨日の晩、ライモンド・ロットの家に賊が入ったんだ」


 公爵の法律顧問の、酒に酔って赤らんだ顔が思い浮かんだ。


「ほう。さしものライモンドの旦那もへべれけでご帰館あそばしてる場合じゃなかったろうな。もう捕まったのかい?」


「まだだ。逃げたんだ。警備を厳重にしているが見つかっていない」


 別の兵が口を開いた。興奮気味だ。

「あの館で働いてる女の子がさ、夜中、うちに駆け込んできたんだ。脅えて喚いてた。ただ事じゃないと思って近所の連中を起こし、駆けつけたら、家の中でライモンドが倒れてた。もう、大騒ぎだよ。まだ息をしてたんで誰かが医者を呼びに行った。けど、おれだったら医者より司祭を呼んでただろうな、ありゃ。そこらじゅう血だらけだったんだから」


「ひどい怪我なのか?」

「虫の息だ。今夜はきちんと戸締まりして寝たほうがいいぜ」


 ジャンニは家に戻り、硬くなったパンを大急ぎで口に詰めて葡萄酒で喉に流し込んだ。それからまた家を出た。



 *



 ライモンド・ロットの館の使用人は、ジャンニを覚えていたようだ。蒼ざめた顔ながらも中へ入れてくれた。


 嫌な臭いが鼻をついた。床に流れた血から立ちのぼる臭いだった。拭き取ろうとした跡があるが、うまくいかなかったらしい。


 一番酷いのは階段の踊り場だった。手すりや壁の血痕は乾いて色が変わっているのに、そこだけはまだ完全に固まっていない。ライモンドが倒れていたのはここだろう、とジャンニは思った。


 くぐもった話し声が聞こえ、階上の一室から人が出てきた。医者と外科医の一団だろう。沈鬱な表情だ。

 

 入れ替わるように、ジャンニは部屋に入った。


 天蓋付きの大きな寝台にライモンド・ロットが寝かされていた。顔は、遠目にも生気があるようには見えない。枕元にアレッサンドラが腰を降ろし、夫を見つめている。


 ジャンニが近づくと、女ははっと顔をあげた。


「驚かせてすまない。大変なことがあったと聞いたもんでね。ご主人の具合はどうだい?」


 入ってきたのがジャンニ・モレッリであると分かり、女の目からは最初に浮かんだ恐怖の色が消えていった。


 昨夜はずいぶん恐ろしい思いをしたようだ、とジャンニは思った。アレッサンドラは一晩でやつれきってしまったように見える。艶やかだった頬はくすみ、疲労の色が濃い。


 型通りの挨拶を交わした。言葉とは裏腹に、女はジャンニの訪問を喜んでいるようには見えなかった。

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