第66話 雨の路地
雨の音か、せわしく扉を叩く音だったか分からない。何かがミケランジェロの眠りを破った。
ひんやりした絹の敷布の感触。
一瞬、どこにいるのかと思った。見慣れない幾何学模様が描かれた壁。あたりには香料の混じった淀んだ匂いが漂っている。
そこで全てを思い出した――汗に濡れた体を、眠る直前まで優しく撫でてくれた女の手。アレッサンドラの温かい肌がすぐ傍らにあった。
扉を叩いていたのは小間使いだった。顔だけ覗かせ、娘は押し殺した声で叫んだ。
「旦那様がお戻りになりました」
女の動きは迅速だった。身だしなみを整え、ここにいるようにとミケランジェロに言い、化粧着の前をかきあわせながら通路へ姿を消してしまった。
ほどなく、階下から声が聞こえてきた。なだめるようなアレッサンドラの声と、夫ライモンドの声だ。
くそっ!
事態の重大さは分かったが、頭が麻痺して何をすればいいか分からない。どうしてこんなことになったんだ? 室内には身を隠せそうな場所はない。窓から飛び降りたくなった。でもここは2階だ。
反響する声と物音から察するに、公爵の法律顧問は酔っているらしい。
足音を忍ばせて、ミケランジェロは部屋の外に出た。通路は行き止まりだった。元の部屋に戻るわけにもいかず、壁の後ろで身を縮めるしかなかった。
2つの影が階段を上がってきた。アレッサンドラが夫の体を支えている。
「もう1つの寝室へ行きましょう」
ライモンドは不機嫌な唸り声を発した。ミケランジェロも気づいていたが、2人の声はお互いを責めるような調子だった。
「うるさい! 自分の寝床で寝て何が悪い?」
「この部屋は冷えます。それに、蚤がいるのですよ」
「蚤だと?」
男は笑い出した。
「いるのは情夫だろうが。そうだろう、え?」
「馬鹿なことをおっしゃらないで」
「おれは知ってるんだ、お前が懲りもせず、また不貞を働いてることをな。おれが戻って来てさぞ慌てたろう? 今日は帰らないと言っておいたからな。そこをどけ」
「あなた、何をおっしゃっているか分かりませんわ」
「今に分かる」
ライモンド・ロットは寝室で暴れ回った。敷布を剥ぎ取り、這いつくばってベッドの下も見たのだろう、誰もいないと知ったか、今度は立ち上がってベッドの脚を蹴っている。アレッサンドラと小間使いの娘が懇願の声を上げていた。
燭台が倒れ、陶器が割れる音がした。
悲鳴が響いた。
深酒と嫉妬に狂った男が、光を背にして戸口に姿を現した。ミケランジェロは慌てて頭を引っ込めた。
「おい、間男、出てこい。どこへ隠れた?」
アレッサンドラが背中にすがり、どうかもうやめてと叫んだ。男は振り返り、妻に平手打ちを食らわせた。
ミケランジェロは目をきつく閉じ、心の中で叫んだ。主よ、お許し下さい、罪を犯した私をお許し下さい。あの男が彼女に危害を加えるのをやめさせ、私を――
「どこにいる? どこに男を隠したんだ、え?」
アレッサンドラは泣いていた。男は走り回っていた。その足音が止まった。
低い笑い声。
「見つけたぞ、この野郎」
ミケランジェロは祈るのをやめた。
見つかった。
終わりだと思った。
恐る恐る、まぶたを開いた。
が、目の前には誰もいなかった。ライモンドが見つけたのが何であれ、それはミケランジェロではなかった。
誰とも分からない相手に、公爵の法律顧問は話しかけていた。
「お前が
相手の返事は聞こえなかった。続く言葉もライモンドのものだった。
「おい、あばずれ、よく見ろ。お前の愛人が、ほれ、出てきた。こんな馬鹿げた頭巾でおれの目を誤魔化せるとでも思ったか?」
頭巾?
怪訝に思って頭を上げると、通路の向こうにライモンドの姿が見えた。階段を降りて相手に向かって行く。
「主が留守の間に忍び込んで、人の女房を盗もうってわけか――」
その言葉が不意に途切れ、呻き声に変わった。
ミケランジェロは手すりから見下ろした。
踊り場に2人の人物がいた。1人はライモンドだ。もう1人は体全体を覆う黒っぽい服。頭巾を目深にかぶった姿は記憶にある像と全く変わらない。顔は判別できないが、エネア・リナルデスキの菜園でフェデリーコを殺そうとした男だ。
あいつがどうしてここに?
ライモンドは目を見開き、よろめきながら両手で喉を押さえていた。指の間から血が噴き出し、壁と床に飛び散っている。
男の手に刃物が握られているのを見て、アレッサンドラが悲鳴を上げた。
頭巾の男は階段を上ってきた。2人の女はさらに甲高い声を発して逃げまどった。
黒い姿が女たちに近づくのを見るや、ミケランジェロは暗がりから飛び出し、大きな体にぶつかっていった。気づくと、もつれあって床に倒れていた。青銅の壺を掴んで振り回した。鈍い手ごたえが伝わり、相手のどこかにあたったのがわかった。
男は逃げ出した。頭巾は脱げていた。頭髪が光を跳ね返す。
「待て!」
床にうずくまっている館の主人の体を、長い裾が乗り越えた。ライモンド・ロットは、もう息をしているように見えなかった。
1階に降りて左右を見回した。聞こえるのは雨の音だけだ。列柱の奥にある裏口の扉が動いた。黒っぽい裾がそこからするりと抜け出し、左に曲がるのが見えた。
道は行き止まりだ。高い建物に周囲を囲まれ、突き当たりは煉瓦の壁。乗り越えられる高さではない。
男はどこにもいなかった。
雨が額を伝い、目に流れ込んだ。
菜園で狙撃してきたのは、あいつだ。
逃げられた。後ろ姿を見たが、もういちど会ったら見分けられるかどうか自信がない。
ここで起きたことを親方に知らせないといけない。
引き返そうとしたとき、背後でかすかな音がした。
あの黒い男が後ろに立っていた。煉瓦を掴んだ片手を振り上げている。ミケランジェロは相手の顔をまともに見た。
記憶が頭の中で閃いた瞬間、煉瓦の塊が額めがけて振り下ろされてきた。
〈第2部 1545年9月9日 了〉
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