第68話 鍵
ジャンニは館の主の顔を見下ろした。
ライモンド・ロットは額に汗を滲ませていた。呻き声のようなものを時々発する。痛みに苛まれつつも浅い眠りについているようだ。
血が、喉に厚く巻かれた亜麻布に滲み、褐色の顎髭にもこびりついている。
階段に飛び散った血痕を見ていたので、ジャンニは彼がまだ息をしていることに驚いた。
「お医者様は、長くは持ちこたえられないとおっしゃいました」
アレッサンドラは夫の腕に手を添えていた。声はしっかりしている。
「気を確かに、奥さん。昨日、何があったか話してもらえるかい?」
「夫は、昨夜は宮廷の宴に招かれておりました。帰ってきた時は少し疲れていたようでした――近頃は公務で忙しくしておられましたから。そこで、水を飲んで休むよう勧めたのです。お酒を過ごした時はいつもそうしておりますので。そうしたら、あの男が現れました」
「あの男?」
「刃物を持った男です」
「そいつがご亭主に斬りつけたんだね。顔を見たかい?」
「いいえ。見えませんでした。明かりが弱かったので」
夫が喉を切られた時のことを思い出したのか、女は唇を震わせていた。あまり立ち入った質問はしないほうがよさそうだ。
「ご亭主を襲ったあと、そいつはどうした?」
「逃げていきましたわ」
物盗りの賊にしては奇妙だ。
「何も盗らずに、手ぶらでかい?」
「ええ」
「昨晩、ここには他に誰がいた?」
ジャンニの靴の爪先が床の上の硬いものを踏んだ。
何かが転がっているようだが、ベッドの下なので見えない。
「わたくしと小間使いの2人だけです。もう、恐ろしくて……」
「あんたがたが無事だったのは神のご加護だろうね。ご亭主も何とか持ちこたえるといいが」
「ええ、主はきっと夫を救って下さいます」
「宴会から戻ってきたご亭主を入れたあと、扉は?」
質問はもう終わりだと思っていたのか、女は少し戸惑ったように見えたが、すぐに答えた。
「主人を迎えに出たのは小間使いです。すぐに閉めました」
腕を組んで考えるふりをしながら、ジャンニは床に落ちているものを爪先だけでたぐり寄せようとした。だめだ。うまくいかない。
「その前もちゃんと閂をかけておいたんだね?」
「ええ、そのはずですわ」
「すると、賊はどこから入り込んだんだろう。まさか亭主の目を盗んで逢い引きしようっていう間男みたいに家の中に隠れてたわけじゃないだろうに……おっと、無礼なことを言っちまった。そんないかがわしい輩がこの館にいるはずないもんな」
アレッサンドラは握っていた夫の手を放し、居住まいを正した。急に、椅子の上が居心地悪くなったように。
「ええ、いったいどこから入り込んだのか分かりませんわ」
「分かった。長居するのも申し訳ないから、もうお暇するよ」
待っていたようにアレッサンドラは立ちあがり、扉までいそいそ歩き出した。
ジャンニは言った。
「もしかすると、そいつは金目の物を盗んでったかもしれない。確かめたほうがいいんじゃないのかい」
「親族の者に頼んで、館の中を見回ってもらいました。なくなったものはないようでした」
「それでもだ。宝石箱も調べたかい? 盗人はそういう場所をめざとく見つけるんだ。確認したほうがいい。ご亭主の様子はおれが見ているよ」
ためらうような顔だったが、アレッサンドラは出て行った。
ジャンニは這いつくばってベッドの下を見た。
床に転がっていたのは、鉄製の小さな鍵だった。丸い輪っかがついている。
それを拾って袋にしまってから、ジャンニは横たわる男の顔をもう一度見た。
「誰にやられたんだい、ライモンドさん」
公爵の法律顧問は答えなかった。血の気のない乾いた唇から、死の臭いがする熱い息がもれていた。
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