第55話 取調室(2)

「この女は嘘をついていた。よって訴えは無効となる。そうだな?」


 ラウラは、マウリツィオの父親からなるべく遠ざかろうとするように壁に背中をつけて立っている。


「ええと、そういう込み入った話ならゆっくり伺おうか」



 *



 取調室の扉を開け、ジャンニは肩越しにたずねた。

「強姦されてないってのは確かなのかい?」


 ピエロが返答した。

「そうだ。この女がそう言った」


「とすると、その痣はどうした? 誰かに殴られたんじゃないのかい?」


「転ぶでもして、顔を打ったのだろうな」


 またピエロが答えた。ジャンニはあくまでラウラに聞きたかった。


「そうなのか?」


 ラウラは黙っている。


「少し前、あんたはマウリツィオに2度にわたって手込めにされたと訴えた。8月5日と、同じ月の30日、どちらもあんたが働きに出てたレニャイアの集落で、だな。それが全部嘘なのかい? ちょっとはほんとのことが混じってるんじゃないのか?」


「すべて嘘だ。うちの息子はこの女と何の関わりもない」

「強姦そのものはあったのか、なかったのか?」


「このあばずれがどこかの卑しい愚か者と交わったと主張するなら、その通りなんだろう。だが相手は私の息子ではなかったということだ。これで息子への嫌疑は晴れた。そうだな?」


「分かりましたよ、ピエロさん。この件は八人委員会に報告しとくから、今日のところはお引き取り願いたいんだけどね」


「息子の名前が出ている書類は全て燃やしたまえ。今すぐにだ」

「断りなく記録を燃やしたりすると、ラプッチがおれを燃やしかねないんでね」


 ジャンニはトニーノを呼び寄せ、耳打ちした。

「あのうるさい豚を連れて出ろ。外で世間話でもしてやれ」


 ピエロは下級役人に伴われて退室した。ジャンニはラウラに言った。


「さて、あんたはこれでいいのかい? マウリツィオに手込めにされたってのは嘘だった?」


 女は前を向いているが、ジャンニのほうは見ようとしない。気の強そうな顔は幼い頃と変わっていない。


「ピエロはあんたを無理にここへ連れてきたんじゃないのかい? 訴えを覆せと」


「いいえ、そんなことは」


「何があったのか教えてくれ、ラウラ。こんなことを聞くのは心苦しいけど、暴行が事実ならそう言ってほしい。さもないと、あんたは八人委員会で虚偽の証言をしたことになる」


 ラウラは、はっと顔を向けた。赤褐色の髪を後ろにひっつめた地味な格好だが、かえって美しさが際立っているようだ。


「偽証ってのは、ばれるとずいぶん重い罪になるんだ。あの豚野郎はあんたを守っちゃくれないぜ。倅が隠れ家から引きずり出されたもんだから慌ててるだけだ。息子の身辺はきれいにしておきたい、だから、奴はあんたを丸め込んで醜聞をもみ消そうとしてる」


 ジャンニは転がっているペンで机に落書きをはじめた。


「けど、公爵さえその気になりゃ、八人委員会は一転してマウリツィオを訴追できるんだよ。公爵があの親子に愛想を尽かすのは時間の問題だとおれは思ってる。釈放の件も、ピエロに懇願されて許可したのに違いないしな。マウリツィオが表を歩けるのは父親が寵愛を失うまでの間だ。彼に有利になる嘘の証言をしたって分わかれば、あんたは厄介なことになる。あんな野郎のために牢に入りたくはないだろう?」


「牢になんか行きません。本当のことを話してるんですから」


 嘘だね、とジャンニは思った。あんたは嘘をついてる。


「ピエロはあんたに何を言ったんだ?」

「私の力になってくれる、と」

「他には?」

「話したくありません」


 ラウラが生活のために娼婦をしていることは話に聞いて知っている。母親を抱えて苦労していることも。


「分かったよ、ラウラ。けど、このことは八人委員会には伝えないでおく。あんたの訴えを取りさげることもしない。ピエロには適当に言っとくから心配するな」


「でも……」


「おれの工房はキアッソ・デル・ブーコにある。本当の話をしたくなったら、いつでもくるといいよ。助けにはなれないかもしれないけど、話くらいは聞いてやれる。こんな老いぼれでよければね」


 女は、ためらいを見せた。が、何も言わなかった。すぐに出て行った。



 *



 中庭に出た。陽射しがきつかった。ピエロの姿はすでにない。

 トニーノは別の訪問者と向かいあっていた。一目で織物工房の職人とわかる薄汚れた格好の男たちだ。何やら口々に喋っている。


「親方!」


 ミケランジェロが走ってきて、薄い冊子を見せた。エネア・リナルデスキの名前が書かれてあった。


「見つけました! やっぱり分厚い記録簿に挟まってたんです。ここを読んでください。エネア・リナルデスキは1537年1月1日から4月30日まで、八人委員会で市民裁判官を務めています」


「あの手紙の日付は5月15日だったな。八人委員会の任にある間は連絡をとらないって文面とつじつまがあう。ヤコポはエネアの任期が終わってからあの手紙を書いたんだ」


 親方に命じられて嫌々とりかかったものの、ミケランジェロは調べるうちにすっかり夢中になっていたらしい。


「手紙に書かれていた【果たすべき義務】って、なんでしょうね?」


 金が絡んでいるのではなかろうか、とジャンニは思った。


「2人は何らかの取引をした。けど、いつまでたっても金が支払われず、ヤコポは不安になる。女房は身重で、生活は苦しい……脅しめいた文面はそれが関係してるような気がするよ」


 トニーノが回廊をやってきた。にきび痕の多い頬から血の気が引いている。


「レオーネ通りの骨董品屋で死体が見つかった」


 どういうことか分わからず、ジャンニは聞き返した。


「死体?」

「誰かに知らせないと……」


「落ちつけよ、トニーノ。おれはもう死体くらいで驚いたりしないぜ、大聖堂の祭壇からぶら下がる男を見たあとなんだから。今度はなんなんだ?」

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