第41話 一難去ってまた一難(1)

 ジャンニは切り株に腰かけ、菜園をぼんやり眺めていた。扉は叩き壊され、空には煙が漂っている。野菜や花、レモンの木は黒っぽい灰にまみれ、無惨な姿をさらしている。


 炎はやぐらの支柱を焼き、屋根瓦を黒焦げにした。


 危なかった。巾着袋を拾って下に戻ろうとした時、やぐらは半ば炎に包まれていた。立ち往生しているところへラーポが来てくれなかったら、今頃は丸焼けの豚になっていた。


 はいなくなっただろう。ジャンニが草地に転がって喘いでいたとき、矢は飛んでこなくなっていた。


 人が集まって質問を浴びせかけてきたが、声はほとんど耳に届かなかった。ジャンニは猛然と考えを巡らせた。


 あれは誰だったんだ?


 首を伸ばし、塔を見やった。あの細長い窓だ。頭巾つきの服をまとっていた。大聖堂で警吏たちが見たという男と同じ格好だ。


 わけがわからなかった。は、フェデリーコを殺すつもりだったのだろうか。エネア・リナルデスキの息子を?



 *



 八人委員会の警吏隊がやってきた。前の晩に大聖堂にもいたリッポと、彼の兄であるグリフォーネだ。


 グリフォーネは市内の巡視を行う警邏隊長だが、不摂生のせいか近年は渾名の〈猟犬〉グリフォーネよりも太った熊に似てきている。いい噂はあまり聞かない。自分の妻に娼婦まがいの事をさせて稼いでいるとか、旧市場の商店主を脅して金を巻きあげているとか。陰ではもっと色々やっているらしい。


 公爵の紋章がはためくと、ジャンニを囲んでいた修道士や染毛職人らは口をつぐみ、おのずと遠巻きになった。


 グリフォーネが馬から降りてきた。見かけによらず、動きは俊敏だ。

「あんたがこの火事を起こした張本人だそうだな」

「ああ」

「連れて行け。放火の下手人だ」

 警邏隊長は弟に顎をしゃくった。

「ちょっと待ってくれ」

「いいや、くるんだ、爺さん」

 リッポがジャンニの肩をつかんだ。ジャンニは動かなかった。

「機械弓で狙撃してきたやつがいる。もうとんずらこいたと思うが、ちょいと見てきてくれないか?」

「機械弓だと? でたらめ抜かすな」

「いいや、でたらめなんかじゃない」

「耄碌した頭で幻でも見たんだろう」

「そうかどうかは行ってみりゃわかる。あそこだ。3階の窓だ。エネア・リナルデスキの息子もそいつに襲われたんだ」


 警邏隊長の顔が苛立ちで紅潮した。

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。誰がそんなことするんだ」


「わからん。顔は見なかった。そいつが矢を撃ってくるから出られなかったんだ。火を燃やせば人が集まると思ったんだよ」


 ラーポが草地を歩いてきた。顔は煤だらけで、袖口や裾が焦げて縮れている。

「医者を呼びました。もうじきくると思います」


「フェデリーコの様子はどうだ?」

「まだ息はあります」

「助かりそうかい?」

「なんとも言えません。矢が深く刺さっていなければいいのですが……」


 言いながら、手をさすった。左手の甲がただれている。火傷を負ったのだろう。


「あんたにも医者が要るな」


 初めて気づいたように、ラーポは自分の手を見下ろして、袖で隠そうとした。 

「いえ、こんなの大したことありません」


 部下を連れて塔に行っていたリッポが戻ってきた。

「誰もいなかった。だが、窓のそばにこれが置いてあった」


 十字型の機械弓だった。

 蜜蝋で補強した木製の台に弓が固定されている。台座の下部の引き金を引くと、鋼鉄の太いばねが矢を発射する仕組みだ。ずっしりと重く、握りの部分は使い込まれて黒く光っている。


 革製の矢筒に矢が数本残っていた。小さな黒い羽根を備え、先は釘のように尖り、返しはついていない。


 1本抜き取り、ラーポに手渡した。

「フェデリーコに刺さってたのと同じやつだ。外科医がきたら見せてやってくれ。手当ての参考になるかもしれん」


 その場を取りしきる役割がいつのまにかジャンニに渡っていることに、警邏隊長は気づいたようだ。咳払いし、弓と残りの矢を警察長官に提出するよう、彼は弟に命じた。

 それから、ラーポを顎で示した。

「この男も連行しろ」


「彼は関係ない。煙を見て駆けつけたんだから。ラーポがいなかったら、おれは豚の丸焼きになってたよ」

「関係ないかどうかはおれが決める。年寄りは引っ込んでろ」


 兵に囲まれると、ラーポは表情を強ばらせた。が、声は落ちついていた。

「なぜです? 私はただ、この人達を助けようとしただけですよ」


「爺さん、あんたが外に出たとき、もう矢は飛んでこなかったんだな?」

「ああ」


 ジャンニは認めた。


「襲ったのがこの男じゃなかったと、なぜ言える? 弓を捨て、なにくわぬ顔であんたを助け出したのかもしれない」


 ラーポが警邏隊長の言葉を否定するのを、ジャンニは待った。しかし、農場の彫金師は黙って立っているだけだった。武装した連中に脅えているのかもしれないが、どことなく警官たちを侮蔑しているような態度が伺える。まずい雰囲気になりそうだ。


「警邏隊長殿、彼はそんなことはしてないよ」

「なら、なぜこいつはこんなところにいた?」


 ラーポがようやく口を開いた。

「近くの僧院に行く途中だったんです。彼らの姿は遠くから見えました。塔から煙が上がるのも」


「どこの僧院だ」


「サンタ・フェリチタ修道院です。ノフリオという修道士を訪ねるためですよ」


「もういい。おれが八人委員会で説明するよ。そんなことより、茶色いズダ袋みたいな格好の妙なやつが近辺にいないかどうか調べてくれ」


 そう言ってから、ジャンニはミケランジェロの姿を捜した。


「うちの徒弟はまだフェデリーコのところにいるのかい?」

「いいえ、ここで起こったことをリナルデスキ家の人々に知らせるよう頼みました。もう工房に戻っているでしょう」


 市門の守備兵が駆けつけ、くすぶる木材に桶の水をかけている。


「うちで火傷の手当てをしていくといい」

「ご心配には及びません。本当に大したことはありませんから」

「おれの工房はキアッソ・デル・ブーコの路地だ。よかったら、あとで寄ってくれ。なんというか、あんたは命の恩人だからな」

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