第40話 縄(3)
年若い警吏のガブリエッロが走ってきて、正面にある建物を指さした。
「モンナ・オネスタって女の家はあそこだそうです。昔、ピエロの家に住み込んで、乳母として働いていたのは確かですよ。この家もピエロが与えたものです。亭主はとっくの昔に死んじまい、もう20年、ここで暮らしてるらしいです」
古い教会の向かい側だった。煙突から灰色の煙があがっている。
ルカが女の家で盗んだ外衣は、大きさからしてマウリツィオのものである可能性が高い。ピエロか一族の女の誰かが彼のために用意したのではないか。そして郵便脚夫に預けたのではないか。
この考えが合っているなら、届け先のモンナ・オネスタという女は、今もマウリツィオと何らかの接点をもっている。
*
白いヴェールをかぶった小柄な老女が出てきた。片手に珊瑚のロザリオを握りしめている。
「モンナ・オネスタかい?」
「そうだけど。誰だい、あんたは」
老女の頭越しに家の中が見えた。なぜか分からないが、ここだと感じた。市場でルカを見て盗品を隠し持っているのが分かったが、それと似ている。
「ここには誰が住んでる?」
「見りゃわかるだろ。あたしの家だ」
「他には誰がいる?」
「そんなこと聞いてどうするのさ。あんた、泥棒じゃないだろうね? 年寄りが1人で住んでるから騙そうったって、そうはいかないよ」
老女が1人で住むにしては、この家は広すぎやしないか。
なぜ男物の衣類が届けられるのか。
「ちょっと、勝手に入るんじゃないよ! 大旦那様がここの持ち主なんだから」
「ピエロの旦那には許可を取ったよ。武器を持った男たちが逃げ込んだっていう通報があったんだ。家の中を調べさせてもらう。これは警察長官の命令だ」
「何のことだい! そんな連中いないよ。出てっとくれ!」
命令だの、許可を取っただの、すべて口から出任せだった。老女が追いすがってきて腕をポカポカ殴った。
「出てっとくれ! この無礼者!」
いかにも年寄りの家といった趣だ。古びたかまどに鍋がかけられ、肉が煮えている。箒の跡が残る床に桶が並び、布や肌着がきちんと積み重ねてある。
壁に掛かっている布をはぐった。箒が立てかけてあった。通路をのぞき、扉を開けてみた。老女は喚きながら後ろをついてきた。こぢんまりした台所、小さな寝台。不審な所はどこにもない。
「ちょっと、あちこちにべたべたさわるんじゃないよ!」
確信めいたものがあったのに、急に何を探せばいいのか分からなくなってきた。窓から見下ろすと、ガブリエッロは通りがかりの若い娘をつかまえて楽しそうに会話している。
「ピエロの息子のマウリツィオはどこにいる?」
モンナ・オネスタは箒を手に取った。
「そんなの知るもんかね。勝手に上がり込んで、次は水でもよこせってかい。とっとと出て行きな」
言いながら、箒をかざして殴りかかってきた。いきなり扉が開き、振り降ろされた箒の柄は戸板にぶつかった。
ぽっちゃりした若い女が入ってきた。大きな乳房が襟ぐりに盛りあがっている。旧市場にいつもいる娼婦だ。確かリッピーナとかいう……
目の周りが青黒く腫れ上がっているのを見て、レンツォはびっくりした。顔に痣がある女を見るのはここ数日で2人目だ。
「あいつはどこ? あのくそったれは?」
老女が素早く彼女に走り寄った。
「あんた、誰だね? 訪ねる家を間違ってるよ」
「へえ、そう? じゃあ、偉い殿方の相手をさせたげるってあたしに言ったのは、ここにいるどちらさんでしたかね。そこをどいてよ、クソばばあ。あいつの金玉蹴り上げて2つとも潰してやるまで帰らないからね」
「誰のことを言ってるんだ?」
「マウリツィオに決まってるでしょ! 他の誰があたしの顔にこんなことすると思う? いけ好かない高慢ちきで、あれをするときはけだものみたいに――」
「どこで会った?」
「ここじゃなけりゃどこだっていうのよ! この婆さんに頼まれたのよ、あのお坊ちゃまのお相手をするようにって。地獄に堕ちりゃいいのよ、あんな男。いやんなっちゃう。今日は八人委員会なんかに呼び出されたしさ――まあ、ジャンニがお咎めなしにしてくれたからいいけど」
レンツォはそれを最後まで聞かなかった。走って階段を上がり、まだ調べていない最上階の部屋に飛び込んだ。
広い部屋だった。葡萄酒の瓶や杯、食いさしの肉が散乱し、饐えた酒の臭いがたちこめている。
乱痴気騒ぎの跡。
老女が腕にすがりついてきた。
「お、お役人さん、頼むから出てっとくれ! ここは入っちゃならないんだ! 坊ちゃまが、それに大旦那様が――お怒りになる! あたしは殺されちまう!」
部屋の真ん中にベッドがあった。大きな寝床だ。臭かった。白い敷布は黄ばんで凹み、少し前まで誰かが寝ていたふしがある。毛布は床にずり落ちている。
「どこにいる?」
揺さぶられ、老女は口をぱくぱくさせた。
「マウリツィオがいたんだろう。どこへ逃げた?」
いきなり目の前が暗くなった。
いつのまにか床に膝をついていた。痛みは感じなかったが、硬いもので頭を殴られのだとわかった。気が遠くなったのはほんの一瞬だった。
モンナ・オネスタが悲鳴をあげている。
見上げると、大柄な男が前に立っていた。肌着にタイツだけという格好で、片手に鉄の燭台を握りしめている。乱れた黒い髪と父親似の冷酷そうな目を見るまでもない。マウリツィオ・ランフレディだ。
老女が、また大声をあげた。
「静かにしろ、くそ婆あ。お巡りなんかこの家に入れやがって」
言いながら、燭台を今度はモンナ・オネスタの頭上で振り上げた。
レンツォは立ちあがって体ごとマウリツィオにぶつかった。不意を突かれて倒れ、転がりながら、マウリツィオが腰の後ろから短剣を抜くのが見えた。すぐに飛び退かなかったら、切っ先で胸をえぐられていたところだ。頭がくらくらしていたが、目眩も痛みもいっぺんに吹き飛んだ。
手近にあるものなら何でもよかった。咄嗟に投げつけた葡萄酒の瓶がまともに肩にぶちあたり、マウリツィオは怯んだ。その体を掴んで、レンツォは相手の頭を壁に叩きつけた。
短剣が床を滑って行き、棚の上の彫像が転がって窓から落ちた。
石の塊が道に叩きつけられる音が外から響いてきた。
仰向けに倒された。マウリツィオの右手には、再び短剣が握られていた。力は、相手のほうが強かった。刃が喉もとまで降りてきた。殺す気か。
ガブリエッロが部屋の入り口に現れた。
「お、おとなしくしろ!」
へっぴり腰の威嚇に、マウリツィオは右手を振り回した。
刃がガブリエッロの腕を切り裂いた。
レンツォは床を転がって立ちあがった。マウリツィオが短剣をかざして前に出てきた。その手首を片手で掴んで腕をねじり、体を回転させて床に引き倒した。
2人がかりで押さえつけ、短剣を手からもぎ取る頃には、マウリツィオは抵抗をやめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます