第42話 一難去ってまた一難(2)

 火災の知らせはすぐに八人委員会に伝わった。


 市民裁判官に、ジャンニは騒ぎの顛末を話して聞かせた。山火事のような臭いをさせ、憔悴した表情をなるべく崩さずに。


 リナルデスキ家の長男が矢を受けて倒れる場面では、役者も顔負けの緊迫感あふれる演技を披露した。

 裁判官らは父の死を悼むフェデリーコの若者らしい言動に涙ぐみ、ジャンニ・モレッリが矢の雨をかいくぐって彼を助け出す部分に固唾を呑んで聞き入った。


 ジャンニは自分がやぐらに火を放ったことは省略し、彼の勇気によってミケランジェロとフェデリーコが命拾いする結末へもっていった。燃えあがる塔は、ジャンニの英雄的行為をしめくくる華々しい幕切れにふさわしかった。


 話し終えると、ジャンニは宮廷風に一礼した。裁判官らは放火の下手人として事情聴取するはずだったことを忘れてジャンニを褒め称え、取調室を辞去する姿を拍手で見送った。


 その後はおとなしく嘆願書の審査会議に加わった。ここでまた逃げ出せば、火災の件で責めを負うべきはジャンニだということを誰かが思い出さないともかぎらない。


 同僚の裁判官をはぐらかしたのと同じ手でラプッチをもごまかせるとは思っていなかった。事件が耳に入りしだい、手厳しく追及してくるだろう。



 *



 ため息をついて、記録保管庫の棚から葡萄酒の壺を取った。


「うっ、なんだ、こりゃ。チェスコ、これはお前さんの尿瓶か?」

「違いますよ」

「小便みたいな味だぞ。そういや、地下の貯蔵庫に高そうなマルヴァシア酒が積んであった。あれを頂いてこよう」


 机に書類の束を置き、トニーノが言った。

「だめだ、ジャンニ、あれはラプッチがお偉いさん用にラグーサから特別に仕入れさせたやつなんだ」

「だったら味見くらいはしてやらないとな。おれにそこまで気をつかう必要はないって言っといたのに」


 出て行こうとして、ジャンニは前につんのめりそうになった。巾着袋がまた腰からはずれて落ちたのだ。


 袋は、焦げて穴があいていた。まさか、エネア・リナルデスキの指輪を落としちまったなんてことは……ジャンニは中を覗いた。あった。袋の底に収まっている。


「それも死体の口から出てきたのか?」

「いいや、大聖堂の床に落ちてた。こいつもヤコポの口に入っていた銅貨と同じように溶けてるんだよ」

「もともとこうなってたんじゃないのか?」

「身の周りの世話をしてたっていう女に見てもらったよ。こんなふうにはなってなかったそうだ。ヤコポとエネア・リナルデスキを殺したやつの周囲には、薬品があったはずだ。それも、ふとした拍子にかかっちまうほど身近な場所に」


 ボルゴ・サン・フレディアーノにある武具修理の工房から、店先に置いてあった機械弓と矢筒が盗まれたという報告が届いていた。今日の午後、徒弟が店の奥で親方に叱り飛ばされていた間になくなったらしい。


 弓と矢が工房から盗まれたものだったとすると、あの射手はボルゴ・サン・フレディアーノの方角からきたということになる。ずっとフェデリーコの後をつけていたのかもしれない。


 その他の書類は、大聖堂に出入りしている職人たちの取り調べ記録だった。1冊手に取り、ろくに読みもせず放り出した。エネア・リナルデスキを殺したのは、石工なんかじゃない。


「さっき、ランフレディ家のマウリツィオが連行されてきましたよ」


「例のろくでなしお坊ちゃまか。どこにいたんだ?」


「デル・カルミネ教会の前にある家です。昔、ランフレディ家に住み込んで働いていた女が住んでいる家だそうです。あのあたりでは彼は顔を知られてないし、〈黒獅子〉亭のほとぼりが冷めるまでかくまっておくつもりだったんでしょう。おそらく父親のピエロの考えたことでしょうがね」


 トニーノが話を引き継いだ。

「身を潜めてたわりには、派手な暮らしをしてたみたいだな。毎晩のように女を連れ込んでどんちゃん騒ぎだったらしい。〈ポルコ〉のリッピーナはやつに殴られたんだ。昨日の晩、そこで別の娼婦といっしょにマウリツィオともう1人の男の相手をしたっていうし」


「もう1人の男? 誰だ?」

「さあ。酒盛りと女が好きな、もう1人のろくでなしだろ」

「噂ですが、エネア・リナルデスキ殺しの容疑者として、ひそかに彼の名前が挙がっているようですよ」

「マウリツィオが? ほんとかい」

「しいっ。どうも警察長官の周囲でそういう話が囁かれているようなんです」


「見ろよ、ピエロ・ランフレディがいる」


 ジャンニは窓から下の通りを見おろした。

 初老の男がまっしぐらに警察長官庁舎に向かってくるところだった。頭巾帽の紐をなびかせ、丸まった肩に黒い毛織りの外衣をはおっている。


 トニーノが言葉を続けた。

「隠していた息子が捕まっちまったもんだから泡を食ってるんだろう。警察長官とラプッチにどんな申し開きをするか見ものだな」


 あの頭巾の人物がマウリツィオだったとすると、彼はボルゴ・サン・フレディアーノで機械弓を盗み、菜園までフェデリーコの後をつけ、狙撃して家に戻り、その後捕らえられたということになる。


 デル・カルミネ教会はリナルデスキ家の菜園のすぐ近くにあり、機械弓が盗まれた通りからは道を1本しか隔てていない。行き来するのに半時間もかからない。菜園の男がマウリツィオだったというのは不可能な話ではない。


 だが、昨晩の大聖堂の件についてはどうか。


 マウリツィオについて知っていることを、ジャンニは思い出してみた。


 フィレンツェでも由緒ある家柄の男。粗野で気が荒く、衝動的に誰かを殺してもおかしくない。〈黒獅子〉亭ではパゴロ・ボンシニョーリに大怪我を負わせている。

 エネア・リナルデスキとヤコポは顔をめちゃくちゃに殴られている。


 だが、マウリツィオはしょせん酒と女と乱痴気騒ぎが好きな、ただの粗暴な男であるような気がした。札つきの悪党なのは確かだが、石工のふりをして大聖堂に侵入し、縄で死体を吊すといった面倒な小細工が彼にできるだろうか。

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