4 迷宮回廊

第26話 地獄篇

 巨大な扉が音を立てて背後で閉まると、ミケランジェロは安堵の息をついた。


 ジャンニが盛大なげっぷをひとつ放った。

「どうだい、公爵の取り巻きにはろくなのがいないだろ?」

 

 ライモンド・ロットは、あのあと戻ってこなかった。女主人が席を立って見に行くと、寝台で仰向けになり、すでにいびきをかいていたらしい。


 公爵の顧問官ともあろう人物が恥も外聞もなく人前で妻を罵倒するのを目の当たりにしては衝撃を受けるしかないというものだ。あの夫婦の間に何があるのだろう。


「あの男は自分の妻をさげすんで喜んでいました。親方もわかっていたはずです」

「ああ、わかってたよ」


 言いながら、ジャンニは街路に面した館の窓を見あげている。間隔を開けて並ぶ3階の窓のひとつに、誰かの影が見えた。ミケランジェロは目を凝らした。が、もう誰もいなかった。


 ライモンドが寝ていたという寝室の窓ではないだろうか。


 ミケランジェロは声を抑えた。

「だったら、なぜ……」


「でもな、おれにはどうもライモンドのやつが哀れに思えちまってね」

「あの男を? 酔ってるとはいえ、客の前であんなふるまいに出る男なのに? あいつはアレッサンドラ様の夫にはふさわしくないと思います」


 ジャンニはにやりと笑った。

「おやおや、宮廷で出世をもくろんでるなら口を慎んだほうがいいぞ、お若いの。こういうとこでは誰かが聞いてるもんだ」


「でも、あいつの態度には虫酸が走る。親方も、なぜ一言も言い返さないんですか? 詐欺師呼ばわりされたんですよ」

「おれはその通りの人間かもしれないぞ、ミケ坊や」


 考えないようにしようとすればするほど、赤らんだ瓜のような男の顔が浮かんできた。なぜ、あんなだらしのない酔いどれが彼女の夫なんだろう。


 旧市場を過ぎ、大聖堂広場へ出た。手前にサン・ジョヴァンニ洗礼堂があり、薄紫色の空に大聖堂の建物がそびえている。


 広場の北側の暗がりに、荷車が1台停められていた。そばには誰もいない。


 ジャンニ親方は考え込むような顔のまま、遙か後方で立ち止まっていた。短い足で懸命にミケランジェロのところまで歩いてくると、ジャンニは言った。

「肉の罪人は地獄に堕ちるのかい?」


「はあ?」

「ライモンドが言っただろう――性悪しき亡霊が地獄の業風に吹かれる。こう誰かが言ったって。何のことか、おれにはちっともわからん」

「ダンテの『神曲』です」

「なんだ、そりゃ?」

「ダンテ・アリギエーリですよ、親方。詩人の。『神曲』地獄篇の第5歌。愛欲の罪を犯したフランチェスカ・ダ・リミニの霊とダンテが話す場面のことだと思います。彼はそれを持ち出しただけですよ」

「どんな詩なのか教えてくれ」

「えっ?」

「そういう小難しいもんはさっぱりわからないんだよ」

「『神曲』はすごく有名ですよ、親方」


「おれの知ってる有名なものはパデッラ広場の売春宿と、タイデっていう別嬪な娼婦のおっぱいぐらいだよ。さあ、どんな詩なんだ?」


 ミケランジェロはためらった。そらで言えるほどには覚えていない。が、それでも一節が口をついて出た。



――恋の炎は、われらふたりをひとつの死に導いた。カイーナは待つ、われらふたりのいのち消した者を。これらの言葉がふたりから投げられた。――



「カイーナ?」


「カイーナというのは地獄のことです。これは、フランチェスカ・ダ・リミニの霊がパオロとの恋の顛末をダンテに語る場面なんです。「命を消した者」は、2人を殺したジャンチョットのことです。彼はフランチェスカの夫で、パオロの兄でもありました。パオロとともに彼女は夫に殺されたんです。ジャンチョットが地獄に堕ちるだろう、とフランチェスカは訴えているんです」


「哀れなこった」

「哀れ?」


「その男には地獄に堕ちるようないわれはないと思うけどね」

「ジャンチョットが? なぜですか? 哀れなのは死んだふたりのほうです。真実の愛を貫いたばっかりに殺されたんだから」


「真実の愛? そんな言葉はまやかしだよ、お若いの。ただの愚かな願望にすぎない。殺すのは確かにちょいとやりすぎだ、そんなのはおれにもわかる。だけどな、女房と実の弟が同じ寝床にいるのを見ちまった男の気持ちにもなってみろ……」


 言い終わらないうちに、ジャンニは立ち止まった。ミケランジェロも立ち止まり、親方の視線の先に目をやった。ちょうど、大聖堂の正面にさしかかったところだった。人だかりができている。


 中で、叫び声のようなものがあがっていた。


「おい、何かあったのかな?」


 声を聞いた人々が集まってきていた。ジャンニは首を伸ばし、群がっている人の頭の間から覗こうとした。が、何も見えなかったらしく、前にいる男をつついた。

 背伸びしていた男は振り向いた。肉屋で買ったらしい鴨を2羽、片手にぶらさげている。


「何かあったのかい?」

「死体が見つかったらしい」

「死体? 誰が死んだんだ?」

「わからん」

「中に死体があるのか?」

「いや、それもよくわからん。どうも、天井から……」

「天井?」


 内部は薄暗がりに沈んでいて、よく見えない。前と後ろから押された。外に出ようとする人々と、中に入ろうとする人々がいた。ミケランジェロはよろめき、床に手をついた。誰かが籠をひっくり返したのか、踏み潰されたた落花生が散らばっている。話し声が聞こえた。


「人が、天井から落ちてきたそうだ」

「いや、吊されてるんだ。逆さにぶらさがって……」


 声の続きは、響いてきた鐘の音に消された。ミケランジェロは立ちあがり、押し潰されないよう壁に身を寄せた。左右を見まわした。ジャンニがいなくなっていた。

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