第25話 晩餐(2)
フィレンツェ周辺の街は、それぞれが独立した司法組織をもつ。
ミケランジェロが育ったフィエゾレにも市の警察があった。市内の事件はすべて地元の警察で処理される。だからフィレンツェの八人委員会については今までよく知らなかった。
「警察」と聞けば「堕落」という言葉が真っ先に思い浮かぶ。上から下まで汚職に染まり、賄賂で私腹を肥やす……そんな警察の役人に、市民は嫌悪と疑惑の目を向けずにはいられない。ここフィレンツェでも事情はあまり変わらないのかもしれないが、ひとつ加わることがある。
ミケランジェロは、ジャンニが「八人委員会」という名称を口にするたびに、相手がある種の反応をするのに気づいていた。多くはさっと顔をこわばらせたり、目をそらしたりする。サン・ドメニコのミケーレ・ランドは剛胆な面構えだが、彼でさえ、ジャンニの自己紹介を聞いて一瞬うろたえたではないか。
相手が警察とわかると、やましいことがなくともたいていの人は緊張するらしいが、フィレンツェではさらに恐怖をも呼び起こすようだ。あの警察長官庁舎の地下の独房や、そこで行われているという陰惨な拷問を思い出すのかもしれない。
「どうかしましたか、奥さん?」
と、ジャンニがアレッサンドラにたずねた。
「いえ、なんでもありませんわ」
アレッサンドラが見せた反応は他の人とは違っていた。
八人委員会と聞いて、彼女は動揺したように見えた。
ジャンニの言葉の何が彼女をそうさせたのだろう?
農場で死人が出たのは知っていたはずだ。
市内で殺しが起きた事実に驚いたのか。
ただ八人委員会の名を聞いて脅えたのか。
それとも、何か警察に言えない事情を隠しているのか。
いや、アレッサンドラにやましいことがあるとは思えない。彼女に限ってそんなことはありえない。驚いたとすれば、このみすぼらしい彫金親方にたいそうな肩書きがついていたからだろう。
もっとも、ジャンニは都合のいいときだけ八人委員会の名前を使い、肝心の任務や会議はすっぽかしているようだが。
アレッサンドラの唇にはもとの柔和な笑みが戻っていた。
「そのような役職についておいでとは存じあげませんでした」
「怖がらせちまうと思って、切り出せなかったんだよ。嫌な話だし、あんたはこんなこと聞きたくないだろうから」
「農園のことは逐一報告させています。自分の周りで何が起きているかは知らなければなりません。今さら、殺しくらいで驚いたりはしません」
ミケランジェロはジャンニを殴りたくなった。怖がらせるから切り出せなかった、だと? このくそじじい、いきなり話をぶつけたらどんな顔をするか見たかったってのが実際のところだろうが。
「しばらく前の手紙に、農夫がひとり死んだと書かれてありました。夜のうちに野蛮な盗賊に殺されたとか。恐ろしいこと」
「だが、フィレンツェの八人委員会には知らせなかった」
「フィエゾレの警察に知らせたと聞いたので、わたくしのほうでは何も……そのせいでよくないことでも起きているのでしょうか」
「いいや」
ジャンニは肉汁のついた指で歯をせせっていた。
「おれが農場のことを知ったのは、運搬人のヤコポが死んだのがきっかけなんだ。サン・ドメニコでも死体が見つかったって聞いて、ひょっとしたら関係があるんじゃないかと思ってね。ミケーレ・ランドによれば、やったのは傭兵崩れの山賊だそうだが。頭をかち割られてたらしいんだ」
アレッサンドラの頬から血の気が引いた。ジャンニは膨れた腹を撫で、満足そうに目を閉じてしまった。
「気にしないでくれ、奥さん。あんたから通報を受けたとしても、八人委員会が山賊どもに対処できたとは思えない。それと、もうひとつ。あそこの農場にラーポっていう彫金師が住んでる。彼について、何か聞いてるかい?」
「いいえ。そういうお名前には心あたりがありません」
ジャンニが何か言いかけたとき、扉が開いた。がっしりした体格の男が戸口に立っていた。立派な黒のマントをまとい、小さな帽子を頭にのせている。
ジャンニが小声で言った。
「亭主殿のご帰還だ」
ゆっくりと場を見渡し、男は不機嫌そうに口を開いた。
「おや、客人か?」
酔っているとはっきりわかる、血走ってとろんとした目つき。離れていても酒臭い息が嗅ぎわけられる。
「こちらがジャンニ・モレッリ様。宮廷お抱えの彫金師でいらっしゃる方ですわ」
わずかな声の震えから、ミケランジェロは女主人が緊張しているのを知って驚いた。
「ジャンニ様をお招きすることは伝えさせたではありませんか。何も聞いてらっしゃらないの?」
「ふん、聞いたさ。お前が私のいない間に誰ともわからん馬の骨を家に連れ込もうとしてる、ってことならな」
アレッサンドラの頬がこわばり、唇が半開きになった。ライモンド・ロットは妻を押しのけてテーブルに近づき、椅子をつかんでジャンニの斜向かいに腰を降ろした。
「亭主が留守の間に人の女房をたらし込もうってのか、え?」
「ライモンド、やめて」
硬い声で、アレッサンドラが言った。ライモンドは葡萄酒の瓶を逆さにした。瓶からは薄赤い液体が1滴、落ちただけだった。
「さて、うまい山羊のチーズと野菜の盛りあわせ、ほろほろ鳥の丸焼きはどこかな? 私は腹が減っているんだ」
「あなた、お食事はすませていらっしゃるものと……」
「私は主だ。自分の家で飯を食ってなにが悪い? まさかこいつらが肉をたいらげちまったんじゃないだろうな。愛人どもには食わせるくせに、亭主には酒のひとつも出さないのか?」
酒臭い息と赤らんだ顔からも、ライモンドは食べ物と飲み物を存分に腹に詰め込んできたように見える。
ミケランジェロは悟った。客に無礼な振る舞いをして妻に恥をかかせようとしているのだ。
アレッサンドラは夫をじっと見つめ、やがて、わかりました、とだけ言った。料理人を呼んで、女は命じた。
「お食事の準備をなさい」
「彫金師とやら、たらふく食っていくといい。遠慮するな。うまい肉があるんだ、もうその腹におさまっちまったんでなければな」
「おかまいなく。おれたちはもう、おいとまするところなんだよ」
自分の言ったことがおかしいのか、ライモンドは大声で笑っていたが、ジャンニの言葉にぴたりと笑いやんだ。
「私の誘いを断るのか? 私のような田舎者と飲むのは嫌だというのかね、誇り高きフィレンツェの彫金師殿? いいご身分だ。公爵閣下のお引き立てを受けて浮かれてるんだろうが、私のもとには別の噂も流れてくるぞ。ジャンニ・モレッリは詐欺師だという噂が……」
「ライモンド、お客様を侮辱するのはやめて」
「お客様だと? お前が私の目を盗んで何をしてるかは知ってるんだ、この売女め。見ろ、ちょっと家を空けたらもう間男があがりこんでやがる。こんな薄汚い職人風情に手を出すとはさぞかし男に飢えてると見えるな!」
ミケランジェロはアレッサンドラが氷柱と化したのではないかと思った。その場の空気が凍りついていた。ジャンニだけが背もたれに身を預け、穏やかな表情で鼻をほじっていた。
こぽこぽと音がした。ライモンドが自分の杯に酒をそそぐ音だった。続く彼の言葉に、ミケランジェロははっとした。
「誰だったかな? 性悪しき亡霊が地獄の業風に吹かれると言ったのは。理性を失い愛欲にふける、肉の罪人とはよく言ったものだ。あつらえむきの者どもがここにいるというわけだな」
ミケランジェロは我慢できなくなった。彼女がこれほどの侮辱を受けるいわれはない。親方にも怒りを感じた。理不尽にそしられているのに、なぜ否定しようとしない。へらへらしやがって、この腑抜けじじい。ここは自分がなんとかしなければ。
ミケランジェロは顔をあげて咳払いし、言いかけた。
「お言葉ですが……」
しかし、先に口を開いたのはアレッサンドラだった。暴言に黙って耐えているように見えた女は、背筋を伸ばし、まっすぐに夫を見つめていた。声はわずかに震えているが、力強く、ミケランジェロにもはっきりと聞こえた。
「いいえ、地獄に堕ちるのはあなたよ、ライモンド。あなたを待っているのはそこよ」
ライモンドは血走った目をじっと妻の顔に据えていた。それから、笑い出した。椅子を引いて前屈みになり、押し殺すような声で笑い続けた。
やがて立ちあがり、おぼつかない足さばきで出て行ったあとも、笑い声だけはその場にとどまっているかのように思えた。
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