第27話 薄闇の通路
大聖堂の堂内には人が大勢いた。立ち話に興じる男、果物の籠を抱えた女、驢馬を連れた農夫、子どもの手を引いて歩く老女。雑役夫の老人が衝立の向こうで床を掃いている。
ベルナがここで仲間と会うかもしれないという話を聞いたあと、レンツォは詰め所に戻って人員を2人確保した。年若い警吏のガブリエッロと、コッラードという、警邏隊から移ってきたばかりの、これも若造だ。
たったの4人では心もとないというものだが、待ち伏せし、現れたらその場で捕らえるという単純な手はずだ。失敗するはずがない。
バスティアーノはすぐ家にとって返し、自分の女と子供が無事なのを確かめた。彼にはスラブ人の女と、間に生まれた8ヶ月になる息子がいる。戻ってきたときは平静な顔だったが、ベルナが目の前にいたら殺すのではないかというほど内心で怒りをたぎらせているのがわかった。
柱の陰から堂内の様子を見ていたバスティアーノが、
「やつだ」
と言った。
伸びぎみの黒い髪と髭を生やした大柄な男が南側の扉から入ってきた。身廊の中央で立ち止まり、あたりを見まわしている。レンツォはその顔を凝視した。間違いなくベルナだった。浅黒い顔と相手を射るような鋭い目は変わらないが、頬の肉がこけている。牢獄にいた3か月のあいだに痩せたようだ。
すぐに飛び出して行きたくなった。ビッチとかいう、顔を知らないもう1人の男がいるかどうかは、ベルナのそぶりを見て判断するしかない。
「やつを取り押さえよう」
主祭壇のほうでかすかな音がした。
金属が床にぶつかるような音だった。しかし、衝立に遮られて向こう側はよく見えない。
老人が箒を動かす手を止め、首を伸ばして怪訝そうに上を眺めている。
「まだだ。あいつは誰かを待ってる」
「でも、ここで取り逃がしたら――」
言おうとしたとき、誰かの悲鳴が上がった。レンツォは反射的に主祭壇のほうを振り返った。
目に映ったのは、にわかには信じがたい光景だった。
天井から、ぴんと張った藁の太縄が1本、垂直に垂れている。縄の先端に結びつけられている物体に目が吸い寄せられた。
あれは人ではないのか?
目を凝らした。人間だ。
主祭壇の上に人間が吊されている。縄で体をぐるぐる巻きにされ、足首を上に、頭を下にして。
驢馬を引いた男が、連れの肩を叩いて祭壇を指さしていた。連れは、上を見てぽかんと口を開けていた。足の上に驢馬が糞を垂れたのにも気づかずに。
直前に何をしようとしていたかを思い出したのは、ベルナが弾かれたように走り出すのが見えたからだった。同時に、人々の叫び声が耳に戻ってきた。
日暮れの鐘が鳴り響いている。
「止まれ!」
ベルナは後ろを振り返ってレンツォを見た。が、止まらなかった。手近な扉から外に出ようとし、開かないと見るや、横にある別の小さな扉の中に飛び込んだ。
反対側の同じ位置ある扉にバスティアーノが入っていった。ぴんときた。北と南にあるふたつの階段は、どちらも大聖堂の
通路の中は真っ暗だった。壁に手を這わせ、耳をすませた。堂内で響く悲鳴に混じって、つまずきながら登っていく足音がかすかに聞きとれる。
採光窓からときどき入る光と自分の耳に頼りに登ると、前方に色がさしてきた。
矩形の光の中に出た。回廊が、丸天井の内側をゆるい曲線を描いて一周している。
目のくらむ高さだった。幾何学模様で埋め尽くされた床にいる人間は、蚤のような大きさだ。真下に並んでいる茶色い粒は貴賓席だろう。あまりにも高い場所にいるせいで、遊技盤に描かれた升目を見おろしているような気がしてきた。膝ががくがくしはじめたので視線を水平に戻した。
目は、どうしても吊るされた男に行ってしまう。あれは誰なのか。まだ生きているのだろうか。上からでは顔の判別がつかない。縛られて紫色になった皮膚が見える。
ベルナは一度だけ肩越しに振り返り、レンツォが遅れをとっているのを見て笑みをもらした。だが、笑っていられたのはそこまでだった。南側ではバスティアーノが待ちかまえていた。レンツォが追いついたときにはもう、彼はベルナの顔を踊り場の床に押しつけていた。足場の悪さが災いして手こずったらしい。どちらも息を切らしている。
通路は暗く、ほとんど10歩先も見えなかった。空気を求めて上下する石切職人の背中を、採光窓から差し込む残照が照らした。
「今に後悔させてやるからな、バスティアーノ」
「何言ってんだ。お前らが牢獄にいる仲間を逃がそうとしてたってことを警察長官はもう知ってる。もう庁舎から生きて出られないよ」
額から流れる汗を腕で拭おうとしたとき、何かが横からぶつかってきた。レンツォはよろめいて壁に手をついた。
バスティアーノは不意を突かれて足を踏み外した。
起こったことを理解するのに時間がかかった。気づくと、2人の姿がなかった。バスティアーノは階段の下に倒れていた。慌てて階段を降り、様子を調べた。怪我はないようだ。
立ち上がり、ベルナを捜した。僧服のような、ごわごわした服を着た長身の男が螺旋階段を駆け下りるのが見えた。脱げた頭巾を手で押さえながら、裾を翻して遠ざかっていく。
なんだ、あれは?
逃げるように階段を降りる姿が気になった。ベルナの仲間だろうか。しかし、修道士の格好をしているのは妙だ。
階下に光がちらついた。誰かがいる。コッラードの声が反響して聞こえていた。
ベルナが逃げた場合を考え、彼とガブリエッロには別の場所につくよう言いつけてあったのだが、慌てて階段を登ってきているらしい。
「コッラード、そいつをつかまえろ!」
衣擦れの音と、息を呑むような声があがった。明かりが揺らめき、床に何かが落ちる音が響いた。
静寂。
レンツォの背中を戦慄が這いのぼってきた。階段の残りを飛び降り、落ちている角灯につまずきながら走った。
コッラードが壁にもたれて崩れ落ちるところだった。支給品の刀剣を収める黒い鞘を腰にぶらさげ、角灯の把手だけを握りしめたまま。薄明かりの中で、まだ幼さの残る顔が驚いたように自分の腹を見おろしていた。
そばの床に、血に染まった短剣が1本落ちている。
「くそ!」
レンツォは怪我の具合を調べようとした。コッラードは腹をひと突きにされていた。
若者をそのままにして立ちあがり、張り出し回廊へ出て大声で叫んだ。
「人が刺された! 医者を呼べ!」
声を聞きわけた人が通路に入ってきた。すれちがいざまに場所を指示し、レンツォは2、3段ごとに階段を駆け降りた。
通路の出口付近に僧衣が脱ぎ捨てられていた。扉から飛び出し、懸命に目を走らせた。大混乱だった。八人委員会の兵が、大勢の人を外へ出そうとしていた。どこを見まわしても、それらしき人物はいない。レンツォは僧服を投げ捨て、警吏隊の兵に近づいた。
「ヴァレンシア人の男を見たか? こっちに逃げてきたはずだ」
2人の兵は顔を見あわせ、主祭壇を指さした。
「あれが見えないのか? 死体が見つかったんだ。内部の者は全員退出させろって命令だ。お前もとっとと出ろ」
向こうに目をやった。人混みにベルナがいた。見物人をかきわけながら逃げている。レンツォは兵を押しのけた。ベルナは路地に逃げ込んだ。その先は古い教会だ。ためらわずに押し入った。銀の十字架や吊り香炉、座部のすり減った長椅子の間を走って身廊へ飛び出すと、半開きの扉が揺れていた。
外は、小さな広場だった。息を切らして周りを見まわした。汗が額から流れた。
ベルナの姿はどこにもない。
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