第23話 旧市場の裏通り(1)

 ラウラから約束をとりつけたが、有頂天になってはいられなかった。脱獄計画はまだ否定されていない。ベルナの居所の情報は念のため確認しておく必要がある。


「カルリーノ? そいつには指名手配書が出されてる」

 と、トニーノが言った。

「教会で銀器が盗まれる事件があっただろ。それに関与した疑いがあるらしい」


「ドッソがそいつの居所を知ってた。八人委員会は何も掴んでなかったのか?」

「最近忙しいからな。そいつの書類はあまり重要じゃない他の件と一緒にどこかに埋もれてるんじゃないかな」

「それを掘り起こして、八人委員会が最優先で処理する事案の山のほうに持っていってやらないか?」

「いいね。それが片づいたら、飯でも食べよう」

 と、バスティアーノが言った。


「飯は、またにする。行くところがあるんだ」

「なんだよ、女か?」

「ああ」

「やけに嬉しそうなのはそのせいか。どんな女だよ」

「未亡人さ」

「ほう」


 トニーノは後ろ向きで椅子にまたがり、背もたれに両手と顎をのせていた。

「やもめ女ってのは、どんな感じだい? 未亡人って聞いただけでぞくぞくしちまう。おれにもそういう幸運が転がってないかな」


「たまげるかもしれないぞ。バスティアーノ、このあいだ男に殴られたって騒いでた酒屋の未亡人を覚えてるだろ? あの家に駆けつけたときに寝室の衣装箱から何が出てきたか話してやりなよ」

「木製の張型が出てきたよ」

「へえ、そりゃ、ますますお手あわせ願いたいな」


 生まれた時からフィレンツェに住んでいるとはいえ、旧市場の裏通りについては熟知しているとは言えなかった。住民は雑多なのが集まっている。道幅は狭く、路地が曲がりくねって奥へと続いている。一見すると、並んでいるのは小さな教会や貧しい家だ。だが、その中では堕胎屋が開業していたり、娼婦が仕事に励むかたわらで盗品と金の交換が行われていたりする。


 そのうちの1つの扉をバスティアーノが叩いた。

 痩せた若い女が出てきた。胸もとの紐がほどけ、湿疹のある乳房がふたつとも丸出しだ。艶のない金髪が首筋にまとわりついている。人生の下り坂にある娼婦だろう。


「カルリーノはいるかい?」

「いないよ」


 答えて、娼婦は扉を閉めようとした。バスティアーノが足を素早く戸枠に突っ込んだ。

「ここにいるって聞いたんだよ、お嬢さん」


「何言ってるのか分かんない。あんた、馬鹿じゃないの?」

 女は扉をぐいぐい押した。バスティアーノは敷居をまたいだまま一歩も退いていなかった。

「笛吹きのカルリーノだよ」

「いないってば」

「どこにいる?」


 女は汚れた髪を額からかきあげた。

「さあね……もう何日も帰ってきてない。ほんとだよ。もう帰ってよ」


 レンツォは建物の裏手にまわった。

 小便の臭いが鼻をついた。道幅は狭く、密接した窓と窓の間に紐が渡され、黄ばんだ洗濯物が干されて風に揺れている。

 陶器の割れる音が往来から響いてきた。バスティアーノが何か叫んだ。


 女が家の中に向かって大声で言うのが聞こえた。

「あんた、逃げて!」


 レンツォは扉から押し入った。若い男が足をもつれさせながら突進してきた。見覚えのない顔だった。ベルナではない。茶色っぽい髪は乱れ、衣服はよれよれで、つま先に引っかけるように革靴をはいている。自分の靴につまずいて転び、抵抗しようとして腕を振り回した。レンツォはその腕をつかんで背中にねじりあげた。


「名前」

「くそ食らえ、くそお巡り」


 家の中は散らかっていて臭かった。ありふれた、貧しい娼婦の家だ。ベルナの姿はない。1つしかない寝床は女と、あの若造のものだろう。部屋を見回し、床に麦藁の袋が敷いてあるのを見た。誰かが寝たようにへたっている。


 ふてくされた顔の若者と女が一緒に座らされていた。バスティアーノは額を赤くし、目を血走らせている。床に陶器の破片が散乱しているところからして、壺かなにかで殴られたらしい。


「カルリーノだな?」

 バスティアーノが若者を掴んで立たせようとした。

 レンツォはそれを腕で遮った。

「ヴァレンシア人のことを話せ」


「ヴァレンシア人の知り合いなんていねえよ」

「ベルナは?」

「そ、そんな名前は知らない」


 つまり知っているということだ。


 女が大声をあげた。

「言っちまいなさいよ! 義理立てしたって、あいつはびた一文よこさないんだから」

「黙ってろ!」

「いいわよ、あたしが言う。ベルナはくそったれよ、あたしが稼いだ金で飲み食いしやがって。ちょっと前までここにいたよ。あたしは嫌だったんだけど、このうすのろはあいつに逆らえないのよ」

「今、どこにいる?」

「知らない。ビッチのところじゃない?」


 ドッソの口からも出てきた名前だ。


「ビッチというのは?」

「もうひとりのくそったれ。牢獄破りの仲間だよ」

「黙れ! 喋ったってばれたらどうすんだ、くそ売女!」

「あんたこそ口を閉じてなさいよ、このろくでなし! 働きもしないでほっついてるくせに、偉そうな顔して! こんな家、さっさと出ていきゃよかった」


 バスティアーノがレンツォを部屋の隅に連れていった。

「よけいなことをするな。連行しよう」


「ベルナのことを聞き出したいんだ」

「それは八人委員会が……」

「何言ってんだ、手柄が欲しくないのか?」

「勝手にベルナをしょっぴいたら、八人委員会は面目をなくす。なんにせよ、リドルフィ長官には考えがあるんだ。ラプッチといざこざを起こしたくないのか、裏をかこうとしてるのかは分からないが、それを邪魔したくない……」

「八人委員会だって、いずれは奴に目をつける。その手間を省いてやろうとしてるんだ」

「連中は手順を踏みたいんだよ」

「そんな悠長なことはやってられない」


 カルリーノはまだ座っていたが、挑戦的な態度は崩していなかった。レンツォは後ろに一歩さがった。

「連中が何を企んでるのか話せ」

「マスでもかいてろ、犬野郎……」


 レンツォは腕を振りかぶってカルリーノの顔を殴りつけた。

 膝に血と唾を垂らされ、女がびっくりして悲鳴をあげた。


「連中がなにを企んでるのか話せ」

「殴らないでくれ、言うから! やつは監獄でペロと知り合ったんだよ。そいつもヴァレンシア人で、ぶち込まれる原因になった喧嘩相手を殺したがってる。頭のいかれた野郎さ。ベルナも牢獄の外に殺したいやつらがいた。やつをお縄にしたお巡りどもだそうだ。それで、連中は手を組むことにしたんだ」

「手を組むとは?」

「つまり、脱獄して喧嘩相手を殺したら、ペロもやつの報復に手を貸すってことだよ。警吏どもはふたり組で、ひとりはバスティアーノとかいうらしいんだが、そいつには可愛らしいあまっことガキがいる。手はじめにそいつらを殺してやるって言ってたよ」


 バスティアーノは顔を引きつらせた。カルリーノが言っているのは、彼のことに違いなかった。

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