第22話 晩餐(1)
ミケランジェロはぎこちなく一礼した。
「お会いできて光栄でございます、奥様」
「大仰なご挨拶はここでは不要ですよ。まだお若いのに、よい師をお選びになりましたね」
それから、女はジャンニに顔を向けた。
「お噂は伺っております。あちらへ参りましょう。色々お話を聞かせてくださいな」
「あんたやライモンドの旦那のお邪魔にならないなら、喜んで」
「主人は、宮廷の方々の集まりに招かれておりますの」
女は、夫の不在についてはそれ以上の説明をしなかった。
純白の布で覆われたテーブルに銀の燭台が置かれてあった。背もたれのある椅子が並べられ、客が席につくのを待ちかまえている。暖炉は天井まで届く大きさだ。
公爵の法律顧問の妻は客のもてなし方を心得ているらしい。ジャンニのがさつな振る舞いに眉をひそめることもなく、彫金についてあれこれ質問する。たとえ社交辞令にすぎなかったとしても、彼女が示す好奇心は心からのものに見えた。
アレッサンドラは街はずれのサン・ニコーラ施療院で子どもたちに読み書きを教えていたことがあると語った。芸術に深い関心をもち、同じ施療院の中庭で職人が石を彫っていた時もそれを興味深く眺めたという。
アレッサンドラが微笑むのにつられ、ミケランジェロも笑った。彼女がジャンニ親方の話を聞くときは彼も真剣に耳を傾けた。いつもは品がないと感じる親方の冗談を、楽しいとさえ思ったものだ。これからは全てがうまくいくような気さえした。明るい気分を味わったのはフィエゾレを出て初めてのことだった。
アレッサンドラが、母親のものだった古い宝石を使って新しい宝飾品を作りたい、と言った。ジャンニはおやすいご用だと請け合い、下絵を描いて届けさせると約束した。
女主人が席をはずすと、ジャンニがミケランジェロの脇腹をつついた。
「お若いの、命が惜しかったらあのご婦人には手を出さないほうがいいぞ」
心得たような笑み。
ミケランジェロの頬に血がのぼった。
「ぼくは、別に何も……」
「亭主のライモンド・ロットは嫉妬深い男でな。ある日曜日の朝、夫婦で教会へ行こうとしていたとき、歩いているアレッサンドラに若い騎兵が色目をつかったそうだ。ロットはそれを見てかっとなり、往来の真ん中で剣を抜いてそいつに斬りかかろうとしたんだよ」
女主人が戻ってきた。
「サン・ドメニコの農場について、お知りになりたいことがおありだとか」
「ああ、そうなんだ」
「どのようなことでしょう?」
思わず、ミケランジェロはジャンニを見た。事件について話を聞くことになっているはずだが、アレッサンドラのこの様子からすると、親方はまだ何も事情を伝えていないらしい。
ジャンニは両手をこすりあわせ、焼き菓子のかすを払い落とした。
「実は、今日の午後、ちょいと寄ったんだがね。申し分のない農場だな」
「葡萄畑はごらんになりました? この葡萄酒もあそこで醸造したものですよ。それに――」
「だが、殺しがあったとなると、せっかくの酒にもけちがつく」
女は口をつぐんだ。ジャンニのことを、少ない蓄えで農地を買おうと下調べに励んでいる老人とでも思っていたのかもしれない。
「そういうことがあったと、確かに農場の管理人から聞きました」
「ほう。となると、あんたはそれを聞いて知っていながら、八人委員会には知らせなかったってわけだ」
ミケランジェロは慌てた。この話しぶりはまるで尋問だ。たらふくご馳走になったあとで、こんな失礼な口をきいていいはずがない。
「八人委員会ですって?」
「おれは八人委員会のもんなんだ。2日前、フィレンツェで殺しがあった。どういうわけか、あんたの農場でも死人が出た、それも殺しだったと聞いたもんで、ちょいと気になっちまってね」
八人委員会と聞いて、アレッサンドラの表情は驚きから別のものへと変わっていた。
あれは、「恐怖」だったのだろうか、とミケランジェロはあとになってから考えることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます