第21話 恋人たちの物語

 若い娘がジャンニの工房を訪れ、ミケランジェロに1通の手紙を差し出した。


 ジャンニは机に両足をのせて卑猥な素描集を熱心に眺めていた。

「親方はいないって言っとけ」


「アレッサンドラ様からだそうです」

「アレッサンドラ? 誰だ、そりゃ。そんな名前の愛人はいなかったと思うけど」


「サン・ドメニコの農場を所有してるっていう、例の奥方ですよ。もう忘れたんですか?」

「そうだった。うっかりしてたよ」


 ジャンニは名残惜しそうな顔で性交体位素描集を置き、手紙を開いた。


 ジャンニとミケランジェロが農園から戻ると、工房は混乱の様相を呈していた。

 うらぶれた路地にあるのに、ジャンニの工房は客足が途切れるということがなかった。どこからともなく人がきては立ち止まり、たわいない話をしながらあれこれ注文していく――古い鎖の修理、怪しげな宝石の鑑定、結婚する娘のための首飾り。ジャンニが姿を現すと陳列台の周りはいっそう賑やかになった。昔なじみらしき人々は、宝飾品の注文よりもむしろジャンニとお喋りするためにきているらしかった。徒弟が注文を書きつけるそばで、親方は低俗な冗談で客を笑わせていた。


 ミケランジェロは注文の書かれた紙をまとめて引き出しに入れた。


 サン・ドメニコからはフィエゾレの街が見えた。シモーナがいる街が。


 くそ。もう考えるのはやめようと誓ったじゃないか。


 家では今ごろ、下女が夕食の子羊肉を炙っているかもしれない。シモーナが葡萄酒に唇をつけ、父親と微笑み交わすのが目に浮かんだ。彼女はミケランジェロにも笑いかける。はしばみ色の瞳はこう語りかけている。


 今はだめなの。あとでね。あとで……


 けれど、その約束が果たされたためしはなく、寝床につく前にミケランジェロが挨拶に出向いても、シモーナはその深緑色の豪華な化粧着の前を決して彼のために開こうとはしない。読んでいる本から顔をあげ、あの微笑を返すだけだ。


 ミケランジェロは古くから伝わる話を思い出した。


 フランチェスカとパオロの物語だ。


 およそ300年ほど前のこと、ラヴェンナの領主の娘だったフランチェスカはリミニの領主ジャンチョット・マラテスタに嫁いだ。しかし2人の間に愛情は生まれず、フランチェスカは夫の弟であるパオロと恋に落ちた。


 彼女は夫の目を盗んで義弟と密会を重ねていたが、ある日、2人の仲を知ったジャンチョットに斬り殺された。パオロもこのとき殺害された。


 この話はフィレンツェ出身の詩人、ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄篇に登場するからよく知っている。ミケランジェロは、自分はパオロのようだと思った。許されぬ恋に落ち、恋人ともども殺された哀れなパオロ。


 彼らは不貞を犯した罪によって地獄に堕ち、烈風になぶられ続けているという。


 2人がお互いを愛していたのに対し、シモーナはミケランジェロを愛していない、これは確かだ。ミケランジェロはおそらく、死んでも1人で風に吹き飛ばされなければならず、許されぬ恋の相手は彼の場合、義理の母だ、なお悪い……


 ジャンニは手紙を元通りに畳んだ。

「なんと、奥方はおれを夕食に招待してきたぜ。こりゃ男に飢えてるのかもしれないな。今から行ってくる。お前さんもどうだい?」


「ぼくがついていったら、先方は皿がもう一組必要になるんじゃないでしょうか?」

「そんなつまらないこと気にするな。アレッサンドラの亭主は公爵の法律顧問でもあるお偉いさんだぞ。1人くらい客が増えたって屁でもないさ」



 *



 大通りの角に石切り職人らがたむろしていた。大聖堂での仕事を終え、飲み屋で一杯やるところだろう。ジャンニが通りかかると、彼らは口々に挨拶をよこした。


 館は、フィレンツェの多くの建物に見られる粗い切石を積みあげた3階建てだった。獅子をかたどった青銅の鐘が扉に付けられ、訪問者が来訪を知らせることができるようになっていた。獅子がくわえている輪っかをジャンニがつかんで叩きつけると、小間使いの娘が彼らを迎えた。


 背後で扉が閉まった。大通りの喧噪がすっと遠ざかった。


 柔らかい光があたりを照らしていた。広間は回廊と柱に囲まれ、吹き抜けになった天井は城がひとつおさまりそうなほど高い。階段は彫刻で飾られ、壁には色鮮やかな幾何学模様が描かれている。


「アレッサンドラの亭主、ライモンド・ロットは地方都市の出身だが、法律家として頭角を現し、フィレンツェに移り住んできたんだ。いわゆる成りあがり者、にわか都市貴族さ」


 公爵の法律顧問ともなれば、俸給もそれなりに高額なのだろう。広間には高そうなマヨルカ焼きの皿や神話の英雄をかたどった彫像がひしめいている。だが、どこかまとまりがなかった。そこらじゅうにある贅沢な品は、財力を客に誇示するために金にまかせて買い漁ったようにも見えた。


 アレッサンドラは30代のはじめか、もう少し若いくらいだった。ぽってりした唇が、細い眉と少し吊りあがった目の印象を和らげている。


 不格好にお辞儀するジャンニに、アレッサンドラは微笑みかけた。

「ようこそいらっしゃいました、ジャンニ・モレッリ様」


「ご招待いただいちまってどうも。不躾を許してもらえるといいんだけど。こっちはうちの徒弟のミケランジェロだ」


 ミケランジェロはアレッサンドラの顔から目が離せなかった。

 目もとの小さなほくろが、ともすると冷ややかな感じを与える目に官能的な趣を与えている。


 彼女はどこかシモーナに似ていた。

 

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