3 地獄の風

第19話 同業者

 驢馬はのんびりと進み、心なしか嬉しげに見える。


 北東の市門は夕方には閉ざされてしまうが、今の時間なら陽のあるうちにサン・ドメニコまで行って戻ってこられる。ジャンニは驢馬を借りて市門を抜け、真っ青な空の広がる丘陵地帯へ出た。


 うなだれたひまわりの群れに夏の終わりの太陽が照りつけている。ジャンニはマントを頭からひっかぶり、強い陽射しに形ばかりの抵抗を示そうとした。打ち負かされそうになれば、あっさり戦いを放棄して涼しい木陰に逃げ込んだ。大地は茶褐色に色づき、丘の向こうの青空に糸杉の緑が対照的だ。


「なあ、この道でいいのかい?」

「ここを登れば、見えてくるはずです」


 農園を知っている、とうっかりもらしたせいで、ミケランジェロは従者のように親方について歩くはめになっていた。


 木立の間に瓦屋根と窓が見えてきた。オリーブの若木が門に濃い影を落としている。収穫した実を搾る圧搾機と桶がそばに置かれ、手押し車から箒の柄が突き出していた。


 ジャンニの予想に反し、農園は広大だった。


 家屋は切石と煉瓦の3階建てで、壁は日焼けして赤茶け、地面に近いところの石材は黒ずみ、緑の鎖帷子のような蔦に覆われている。そこに別棟が連なっているさまはちょっとした要塞を思わせた。


 あたりは静まりかえっていた。煙突から煙が出ているが、人の姿は見られない。


 小屋の脇で、農夫が腰をかがめて作業をしていた。黄ばんだ肌着の袖をまくりあげ、壺の中身をたらいに移し替えている。大柄だが、気弱そうな顔だ。八人委員会の名前は出さないほうがいいだろう。


「ジャンニ・モレッリってもんだ。ここの主に会いたいんだが」


 男はのっそり立ち上がってどこかへ行った。


 広大な敷地にはブドウとオリーブのほか、小麦や燕麦の畑、オレンジの木も見える。


「こんな農場がありゃ、あくせく働かなくても暮らしは安泰ってとこだな」


 向こうに1本の松の木と、ぽつんと佇む家屋があった。煙突から煙はあがっていない。


 陰鬱な感じのする建物だった。細長い窓が2つ。どちらも板で塞がれている。農園の他の建物に比べて、修繕の必要な箇所が目立つ。


 扉のそばに机が置かれ、彫金用の金床と錆だらけの彫刻刀が放置されている。


 ジャンニは扉に手をかけた。

 

 横から、低いうなり声が聞こえた。黄色い毛並みの犬がそこにいた。牙をのぞかせ、血走った目でジャンニを睨みつけている。

 扉を押した。動かなかった。犬のうなり声が大きくなった。ジャンニは後ずさりして戸口から離れた。


 裏手は日陰だった。地面に置かれた桶の中に、ぼろ雑巾が入っていた。乾ききっていない血に染まっている。ジャンニは大声をあげた。


「ミケランジェロ!」


 返事はない。ジャンニは建物をまわった。犬もいなくなっていた。木の枝が風でこすれる音が聞こえるだけだ。


「ミケ坊や、どこだ?」


 ミケランジェロは葡萄畑を眺めていた。ジャンニは手招きした。

「これを見ろ」


 ミケランジェロは眉をひそめた。

「人間の血ですか?」


 ふと視線を感じた。ジャンニは振り返った。


 藁ぶき屋根の下に、中年の男が立っていた。痩せて背が高く、膝丈の茶色いマントをはおっている。体のどこかが不自由なのか、寄りかかるように立つ姿勢には痛みを我慢しているような不自然さがあった。


 目があった。

 ジャンニが踏み出すより早く、男は背中を向けて走り出していた。


「追いかけろ!」


 突然の叫び声に驚きながらも、ミケランジェロが駆け出した。逃げる男のマントがはためいていたのは束の間のことで、ミケランジェロの背中とともに、その姿はすぐに見えなくなった。小道は枝分かれし、1つは母屋へ伸びている。ミケランジェロは周囲を見まわしていた。ジャンニの目が、遠くの木立にふわりと動くものをとらえた。


「あそこだ!」


 男は糸杉の間を逃げていく。ジャンニは坂を滑り降りた。林の手前で立ち止まっているミケランジェロの姿が見えた。息があがってしまったらしく、木の幹に手をついている。


「どうした、お若いの」


 見ると、男のほうも十数歩先の地面にうずくまっていた。辺りは薄暗く、木の根が露出している。足をとられたらしい。


「なぜ逃げようとしたんだい?」


 男は顔をあげた。声はかすれて言葉にならない。

「やつらが……やつらがきたのかと」


「やつら? 誰のことだ」


 男は息を落ちつかせようとしていた。

「あなたがたは一体……」


「ジャンニ・モレッリってもんだ。あっちの若いのはうちの使いっ走りのミケランジェロ」

「ならず者がうろついているんです。てっきり、あなたがその連中かと……」


 ジャンニは木に背中をつけてへたりこんでいる若者に言った。

「聞いたか? お前さんの凶悪そうな顔がこちらの旦那を脅えさせちまったみたいだよ……ところで、あんたがこの農場の主かい?」


「いいえ」


 男は浅黒い肌をしていた。が、太陽の下で農作業にいそしんだ者の日焼けではない。あまり散髪しないらしい髪には白いものが混じり、頬に無精髭が目立つ。


「悪かったな、盗人と疑われるようなまねをして。ええと……」

「ラーポといいます」





 ラーポが鍵で扉を開けた。黄色い犬は尾を振って一緒に入った。


 大きな机が床を占拠していた。古びた腰かけは埃をかぶり、本の置き場と化している。壁に紐が渡され、数本のペンチが柄を下にして引っかけてあった。


 反対側の壁の戸棚は、もっとしっかりした造りだった。中には栓をした壺や小瓶が収まっている。


 犬はしばらくジャンニの靴や尻を嗅ぎまわり、飽きて後ろ脚で顎を掻きはじめた。


 ラーポはマントを脱いで木箱の上にかけ、ジャンニが戸棚に近づくのを見た。

「ああ、そこは手を触れないほうがいい。あなたには危険な薬品が置いてある」


 透明な液体をたたえた瓶を、ジャンニは手に取って眺めた。

「硝酸かな?」


「そうです。よくお分かりですね」

「うちの工房にもあるよ。ごきぶりを放り込むときくらいしか使わないけど」

「失礼ですが、あなたはどういう……?」

「フィレンツェで彫金をやってるもんだ」


 ラーポは笑みを浮かべた。

「あのジャンニ・モレッリか。どうりで聞いたことがあるわけだ。お噂は伺っています。フィレンツェ公爵お抱えの彫金師とお近づきになれるとは光栄ですよ。私はあなたに及びもしない者ですが」


 やっかみを言ったわけではなさそうだった。フィレンツェの同業者と違い、ラーポの声には好奇心がうかがえる。


「あんたも彫金を行うようだが、フィレンツェの親方についたのかい?」

「ええ」


 素描用に色を塗った、古い紙があった。折り目がちぎれ、かろうじてつながっている状態だ。赤子を抱いた聖母が慈愛のまなざしで膝の上の幼児を見つめている。


「あんたが描いたのかい?」

「ええ。ずいぶん前ですが」

「なぜ、こんな農場にいるんだい? ここじゃあんたの腕前が人の目に触れることもないだろうに」

「ここにいるのは、宝石と石ころの区別もつかない連中だと言いたんでしょう。そのとおりです。だが、フィレンツェはどうです? 偉大な画家や建築家を育てた美の都が今や廃れる一方だ」


 雨ざらしになっていた金床と、錆びた彫刻刀のことを思った。


 ラーポが昔、彫金にいそしんでいたのは確かなようだが、何らかの理由で道具を手にとらなくなって久しいに違いない。


「野盗がうろついてるから窓に板を打ちつけたのかい?」

「いえ、陽射しを遮るためです。よく眠れないたちで。昨夜は久しぶりにぐっすり寝られたので近くの農家に行っていました。農夫たちの話は有益で楽しい。フィレンツェと違い、ここでは堕落した人々や盗みや殺しを見ることもない」

「最近はそうでもないらしいけどね」


 ラーポは落ちついた声で聞き返した。

「というと?」


 麦藁帽をかぶった、60才くらいの男が戸口に現れた。まばらな髭に覆われた顔は日焼けして赤く、肩から斜めがけにした大きな籠を胸の前にぶらさげている。


「フィレンツェからきたってのは、あんたかね?」

「そうだ」

「今度はなんの用だ、え? 帳簿の写しならもう奥方宛に送ったぞ。届いてないなんて言われても知らんからな」


 喧嘩腰に見えるのは気質のせいだろう。農夫よりも兵士がさまになりそうな豪放な男だ。


「何のことか知らないけど、おれは八人委員会のもんなんだ。ここで死体が出たっていうんで話を聞きにきたんだよ」


 農夫は目を剥いた。

「八人委員会?」


「あんたはここの主かい?」

「いや。だが、そういうことなら話す相手はおれのようだ」


 ラーポの目が追ってくるのを感じながら、ジャンニは農夫の後について外へ出た。


「おれはミケーレ・ランド。この農場にはもう30年いる。フィレンツェから人がくることはあるが、たいていは奥方の代理人どもでね。てっきり、あんたもそいつらによこされたのかと思った」


「さっきから言う、その奥方って誰だい?」

「この土地の所有主だ。アレッサンドラっていう女でね。何にも分かっとらんのにまぬけな代理人をよこすからややこしいことになる。やってられないよ」


 ミケーレは酒をコップ一杯に満たした。ジャンニはありがたく受け取った。


「あんたはフィレンツェの役人には見えんな」

「彫金師でね。どっかのあほうの手違いで、八人委員会なんていう陰気な集まりに呼ばれちまったんだ」


「彫金師? だからだな、ラーポと話してたのは。あいつも薄っぺらい金属で細々としたことをやっている」

「彼はずっとここに住んでるのかい?」


「いいや、あいつがこの農場にきたのは1年ほど前だ」


 家のどこかから赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。


「それじゃ、殺された男のことを話してくれないか」

「言っとくがな、あの件に関しちゃ、きちんと街に知らせたんだ。馬に乗った役人がフィエゾレからきたよ。そいつらはおれから話を聞き、またあったら知らせろと言って帰ってった。いい加減なやつらさ。今さらフィレンツェの警察にお咎めを受けるようなことは、おれはなんにもしちゃいないぞ」


「誰もあんたを咎めちゃいない。八人委員会はここで死体が出たのも知らなかったんだから」

「だったら、なぜきた?」


「ちょうど2日前、死体が見つかった。顔をめちゃくちゃにやられてたんだが、ここで死んだ男も同じような有様だったって話だ」


 銅貨のことは、伏せておいた。ミケーレは2つの杯にまた勢いよく酒を流し込んだ。


「それがフィレンツェで起きた殺しなら、少なくとも下手人は別のやつだろう」

「ほう?」


「うちの農場の男を殺したのは、この辺りにいる野盗だからさ」

「詳しく話してくれ」

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