第18話 情報屋

 高い塀がレンツォの好奇心を阻んでいた。このような場所は一般に男の立ち入りが制限され、訪問者は許可がなければ入れてもらえない。


 入口が見える場所に立って、出てくるのを待つことにした。壁の向こうに礼拝堂の屋根が見えていた。彼女はこんなところに何の用があるのか。


 洗濯籠を抱えた女たちが通り過ぎると、あたりは静かになった。牢獄のヴァレンシア人の件が頭をよぎった。ペロは八人委員会に何か白状するだろうか。仲間の手を借りて牢獄から脱走しようとしていた、というのは今のところ推測でしかないが。ひょっとしたらベルナの名前が出るかもしれない。1人で縛り首になるか、仲間を道連れにするかでは、後者のほうが可能性は高い。


 ずんぐりした男が角を曲がって歩いてきた。レンツォを見るとすぐに回れ右をして立ち去ろうとしたが、レンツォが気づくほうが早かった。


「ヴァレンシア人どものことを知ってたな?」

「でかい声を出さないでくれよ。お巡りと一緒にいるとこなんか見られたら……」

「おまえは連中の噂を知ってた。だが、おれには黙ってた」

「お、おれはいつもあんたに情報を渡してる。賭博の話は本当だっただろ?」


 男はレンツォの情報屋で、名前をドッソといった。数カ月前、小銭をくすねようとしていたところを取り押さえ、他の重要な犯罪を密告するのを条件に解放したのだ。

 だが、見込みは誤りだったらしい。この男にたれ込み屋の資質はない。


「ヴァレンシア人どものことは確かに聞いてた、でも、ちょっと耳に挟んだだけだ。黙ってるなんて、そんなつもりじゃなかった。次にあんたに会ったら言おうと思ってた。ほんとだよ」

「何を聞いた?」

「監獄とか、ビッチのこととか、いろいろ。ヤコポとかいうあの運搬人が殺されたっていうじゃないか。それで怖くなっちまって――」


 ビッチという名は頭の中の犯罪者名簿にのっていなかった。レンツォはその新しい名前を忘れないよう、記憶に刻みつけた。


「ベルナが関わってる。やつはどこにいる?」

「ベルナ? やつの名前は近頃は聞いてない。ガセねたでもつかまされたんじゃないのかい」


 レンツォはドッソの頭をつかみ、水たまりの中に突っ込んだ。


 扉が開く音。

 続いて、くぐもった話し声。

 施設を振り返った。ラウラが扉から姿を現すところだった。風で飛ばないように肩かけを手で押さえながら、彼女はすでに歩き出していた。


 ぐずぐずしていたら行ってしまう。


 ドッソは顔を真っ赤にして咳き込んでいた。


「は、話さないとは言ってないじゃないか。ベルナはカルリーノってやつの家にいるよ」

「そいつは誰だ? 場所は?」

「大道芸人の笛吹きだ! 〈ポルコ〉っていう宿のそばだ! 釈放されたあと、ベルナはそこに行ったんだ。頼む、おれが言ったってのは黙っててくれ。あんたに喋ったのがばれたら酷い目に遭わされる!」

「やつとヤコポとの関係を話せ」

「友達ってわけじゃなかったと思う」

「いざこざがあったのか?」

「さ、さあ。知らないな……嘘じゃないってば! ほんとに知らないんだ。なあ、もういいだろ?」


 ラウラの姿はもうなかった。

 レンツォは通りの角まで行き、左右を見まわした。

 いた。修道院の方に向かって歩いている。近づいて声をかけようとした。会ったのは2日前だから覚えているはずだ。

 しかし、女は彼を見ても何も言わなかった。

 顔を知っているそぶりさえしなかった。

 うつむき、ほつれた髪を耳にかけ、立ち止まるどころか歩調を早めた。


「やあ、ラウラ」


 あとの言葉が思いつかなかった。少なくとも、女は話しかけてほしいようには見えない。むしろ離れてもらいたがっているようだ。


「家を訪ねたんだけど、留守だった。だからここににきた。下の階の婆さんが、あんたはさっきの家にいると教えてくれたんだ」


 女は黙ったまま歩き続けている。不首尾に終わりそうだった。決まりが悪くなり、立ち去ろうとしかけ、自分に言い聞かせた。


 お前がそうやって高価な皿みたいに大事にしてるものはなんだ。ただの自尊心じゃないか。なくしてもどうってことはない。もっと堂々としろ。


「あの人だけは、いろいろ私のことを心配してくれてるから」


 レンツォはほっとした。 

「さっきの家に身内がいるのか?」


「母が。父が死んでから、あそこで暮らしてるの」


 口をきくのを嫌がっているわけではないらしい。


「だからこうして訪ねてきているんだな」

「肌着を届けにね。そうしたらナンナにつかまって……」


「誰だって?」

「あの家にいる人。話しはじめると終わらないの。呼ばれて行っちゃったけど、それがなかったら夕方まで噂話につきあわされてた」


「女は、噂話が好きなんだと思っていたけど」

「私はそうでもない。母と一緒にあそこに住んだほうがいいって言ってくる人もいるけど、あんなところで暮らしたら息が詰まりそう」


 女は、急に黙り込んだ。よく知らない男と率直に話をしすぎたと思ったのかもしれない。

 レンツォは八人委員会の書状を渡した。

「あんたにだ」


 ラウラは読もうとしなかった。くしゃくしゃにして放り投げた。

 目を転じると、女はもう歩き出していた。


「ラウラ!」

「ほっといて」

「八人委員会は、あんたの訴えの件で通達をよこしてきたんだ。そうだろう?」

「ええ」

「連中はなんと言ってきた?」

「証人を出すようにって」


 強姦が事実であることを証言できる証人か。だが、ひとけのない郊外で襲われたということは、誰も彼女が強姦されるところを見ていなかった可能性が高い。


「証人がいるのか?」

「いいえ。どうしろというの?」


 法律のことはよくは知らない。が、扉を壊されたり、人々の目がある場所で襲われたりしたのでないかぎり、強姦は立証が難しいという話は聞いたことがある。


「私はもう八人委員会には行かない。マルカントニオ・ラプッチは、私にこう言ったの。女から誘ったなら、それは強姦じゃないのは知ってるかって。無理強いされたのは確かなのかって。混乱して、その判断がつかなくなってるんだろうって。家に帰ってもう一度よく思い出してみたほうがいいそうよ。私が誘ったのかもしれないから」


 八人委員会は彼女の訴えを退けるつもりだ。

 ラウラの訴状は今後顧みられることなく、記録保管庫に埋もれたままになるだろう。

 解せなかった。いったい、彼女を襲ったというのは誰なのか。


「おれと兄貴もあそこへ引っ立てられた。証人を呼べと言われた」

「何をしたの?」

「居酒屋で喧嘩して相手の鼻を折ったと思われたんだ。でも、やったのはおれたちじゃない、別のやつだった。みんな知っていた。でも誰も証言してくれなかった。八人委員会は誰でもいいから処罰したかったんだ。兄貴は16をすぎてたから2年の追放刑になった」

「あなたは追放されなかったの?」

「まだ15だったから」

「それで?」

「悔しかった」

「それだけ? 憎いと思わなかったの?」

「あんたは憎いのか?」

「死んでほしいわ」

「相手は誰だ?」

「ランフレディ家のマウリツィオ」

「確かかい?」


 女は歪んだ笑みを浮かべた。

「肩に穴があいてるわよ。針を突き刺してやったから」


「だからやつは殴ったのか?」

「ええ、ひどい顔よね」


 どう答えていいかわからなかった。レンツォは咳払いした。

「ランフレディ家には金がある。父親に要求すればふんだくれるぜ」


「私はあのけだものに死んでほしいだけよ」

「なら、八人委員会に従え。証言できる人はいるだろう。あんたが襲われたことを知ってる誰かがいるだろう」

「いる。でも、もうあそこへ行きたくない」

「亭主に付き添ってもらうことはできないのか?」

「夫は1年前に死んだの」


 道で立ち話をしていた女たちが、彼女を娼婦だと言っていたのを思いだした。レンツォは思い切って言ってみた。

「なあ、今晩訪ねていってもいいかい?」


「いいえ。母を司祭様のところに連れていかないといけないの」

「一緒に行ってやる」

「あなたは普段から教会に行く人?」

「うん、でも1人では行かないことにしてるんだ」


 女は唇の端を曲げて笑いをつくった。

「いいわよ、みんなが私をどんな女と言ってるか知ってるなら」


「勇気がある女だ。八人委員会書記官を殴る度胸をもってるやつは、男でもあの庁舎にはいないよ」


 いきなり、サンタ・クローチェ教会の回廊から司祭が出てきて怒鳴り声をあげた。子どもが3人、栗の木に梯子をかけ、まだ青い実を棒で落とそうとしていたのだ。子どもたちがふざけて叫びながら逃げるのを見て、ラウラは笑っていた。


 はじめて見る笑顔だ。魅了されないでいるのは難しかった。手を伸ばせば届く距離に腰があり、思わず腕をまわしたい衝動に駆られた。そんなことを口に出したら嫌われるだろうか。


「日没にサン・ニッコロ教会にきて」


 それだけ言い、ラウラは肩かけをなびかせて踵を返した。

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