第17話 再訪
宿の主はレンツォが腰に吊している刀剣を見ても動じず、肘をついて鼻をほじっていた。
「ベルナっていうスペイン人の男に部屋を貸したか?」
あるじは鼻くそを眺めて、はじき飛ばした。
「あのいかれたヴァレンシア人か。だいぶ前に追い出したよ。女をかこって客をとらせてたからな。そういうことは、ここじゃ許さねえんだ」
「それはいつ?」
「6月くらいだったかな」
〈コロナ〉で暴れた頃だ。
「そいつはここ最近、戻ってこなかったか?」
「いいや」
「居所に心あたりは?」
また鼻をほじる。
「ないね。見つけたら、盗んだ鍋を返せと言っといてくれ。それと、洗濯代だ。敷布を酒と小便まみれにしやがって」
暑くなりそうだった。レンツォは警察長官庁舎へ向かった。
数日前、とある教会の司祭が庁舎を訪れ、書記官に謁見を願い出た。その司祭と一緒にいたのが、2日前にレンツォが書状を届けた、ラウラというあの女だった。
ラウラがここにきた理由は分からない。なぜ顔に痣をつくったのかも分からなかった。あの痣は殴られてから日が浅い。誰かにひどく折檻されたか、ろくでなしの亭主でもいるのだろうか。男が住んでいることを匂わせるようなものは、家の周りにはなかったが。
トニーノは看守の机で小銭を数えていた。レンツォはたずねた。
「サン・ニッコロ教会の司祭がきてたのを覚えてるか?」
「うん」
「彼は何のためにラプッチと話をしにきたんだ?」
トニーノは上の空だった。有り金の額が想像していたより少なかったらしく、どこで記憶が食い違ったのかを思い出そうとしているように見える。
「強姦だ」
「えっ?」
「強姦の訴えだよ。あの女は2度、手込めにされたらしい」
顔の痣はそのせいか。
「その件で相手を告訴しにきたんだ。つまり、ラプッチと話をしにきたのは女のほうだ。一緒にいた司祭は付き添いだ。女ひとりじゃ話を通しづらいと思ったんだろう」
マルカントニオ・ラプッチは八人委員会の最高権威者であり、法廷では公爵の代理人を務める人物だ。その高級官僚に強姦の相手を直訴というのが気になった。
「相手は誰だ?」
「知らない。盗み聞きするほど暇じゃなかったんでね。ただ、聴取は途中で終わった。何があったか知らないが、女がいきなり書記官の顔をひっぱたき、司祭を置き去りにして帰っちまったんだそうだ。たいしたタマじゃないか。ラプッチが女に殴られてどんな顔をしたのか、ぜひ見たかったよ」
トニーノは急に、にやにや笑いを浮かべた。
「その男はさぞかしいい思いをしたにちがいないよ。あの女、そうとうの好き者だ。見りゃわかる。おれの顔を見たときの目つきといったらなかったぜ。やりたくてたまらないって顔だった。うん、ありゃどうみても誘ってたよ」
レンツォはこの下級役人の鼻を思い切り殴りそうになった。ちょうど八人委員会の伝令が通りかからなければ本当にそうしていたかもしれない。自分の女を侮辱されたように頭にきたのは、あの、ぴっちりと首まで詰まった灰色の服を自分の手で剥ぎ取るところばかり思い浮かべていたからに違いない。
2人の伝令は話しながら通り過ぎていった。1人は封書の束を脇に抱えている。レンツォは歩いて後を追った。
「今、なんて言った? 誰のところへ行くって?」
伝令は初めて見る顔だった。新入りだろう。
「通達を届けに行く話をしてたんだ」
「宛先は?」
「あんたになんの関係があるんだ?」
「いいから、教えろよ」
「ポルタ・ロッサ通りの鍛冶屋親方のジョヴァンニ、ティントーリ通りのラウラって女、それに……」
「女のぶんはおれが持っていってやる」
レンツォは書状を奪い取って庁舎を出た。月曜の晩以来、ラウラの姿は一度も見かけていない。階段をあがり、戸を叩いた。
応答がない。
「誰かいないか?」
下の階の扉が開き、年老いた女が顔を出した。
「ラウラに用かい?」
「ええ」
「出かけてるよ。ペルゴーラ通りにある女たちの家に」
「女たちの家」は警察長官庁舎の北東にあった。塀に囲まれた、僧院を思わせる外観の建物だ。内実は打ち捨てられた女たちの住まいといったところだろう。夫が死んだりして生活力をなくした女が、手仕事をしながら共同で暮らしているたぐいの施設だ。
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