第16話 北の農場

 八人委員会の書類が机に山積みになっていた。ジャンニはげんなりした。

「これだけありゃ、いつ腹を壊しても心おきなく尻がふけるな」


「無記名の投書です。運搬人のヤコポを殺した下手人についての密告状が届いたんです。165通あります」

 文書係助手のチェスコが1枚づつ整理しながら言った。


「なんて書いてあるんだ? 誰が下手人だって?」

「妙なことに、大勢の名前が挙げられています。肉屋のグイドだとか、旧市場の靴職人ジュリアーノだとか。中には、カルロス5世や教皇パウルスなどと書いてあるのもある。これらをどう考えればいいのか……」


「どうせ頭のいかれた連中だ。もしくは、女房を寝取った野郎の名前でも書いて送ってきてるんだろう。よせよせ、こんなもの読まないで窓から捨てちまえ」


 ジャンニは紙片をかき集め、開いた窓のほうへ歩いていった。チェスコが慌てて追いかけてきた。紙束を外に放り出そうとして、ふと一番上の書類が目に入った。密告状ではなさそうだった。


 見覚えのある名前が書かれてある。


「ラウラ……」

「ご存じなんですか?」


 ジャンニは思い出した。彼女の父親とは旧知だったことを。


 ラウラは、赤みがかった髪をした気の強い娘だった。貧しい細密画家の父親はかなり前に死んだが、娘のことはその後も人づてに聞いていた。数年前に結婚したことや、夫とはすぐに死別したことも。


 その他のあまりよくない噂も。


「この間の、あいつの名前はなんだっけ?」

「この間のあいつ?」


「どっかの居酒屋で客に斬りつけて逃げたっていう、あいつだよ」

「マウリツィオ・ランフレディのことですか?」


「そう、そいつだ。評議会のお偉いさんが妾に産ませた放蕩息子」

「しいっ。そんなに大きな声を出して書記官に聞かれたら……」


「聞かれたらどうなるんだ?」

「書記官はマウリツィオの父親のピエロと懇意な間柄なんです。ですから……」


「そうか、ラプッチと親しいのか。どうりで息子がろくでなしになるわけだ。これを読んでみろ」


 9月4日付けの訴状の中で、ラウラは8月5日とその約1カ月後の8月30日、集落に働きに出ていたおり、マウリツィオ・ランフレディに強姦されたと主張していた。


「ですが、強姦されたというのは根拠に乏しいようですよ」

「この娘が嘘をついてるっていうのかい?」


「彼女の主張によれば、最初に襲われたのは8月5日です。マウリツィオは、確かにこのときまではフィレンツェにいました。ご存じのように2日後に〈黒獅子〉亭で騒ぎを起こしていますから。でも、そのあと行方をくらましたんです。いないはずの人物にまたも強姦された、と言っているんですからね」


「なら、マウリツィオはまだこのへんにいるんだろう」

「そうでしょうか? 八人委員会は追われている彼がまた騒ぎを起こすとは考えにくいと思っているようです。それに、このラウラという女はどうも評判がよくない。強姦されたっていうのは嘘で、金めあてに虚偽の訴えを起こしたんじゃないかという話もある」


 ジャンニは彼女についての悪い噂を思い出した。夫に死なれてからまだ1年しかたっていないというのに、もう喪服を脱いでしまったという話だ。さらに、多くの男がおおっぴらに彼女の家を訪れているという話だ。つまり、彼女は娼婦であり、それがすでに住民のあいだで周知の事実になっているということだ。


「金細工親方はいるかい?」

 トニーノが通路から顔をのぞかせた。

「こちらの坊やが、あんたに急ぎの用件があるらしいよ」

 

 ミケランジェロだった。あいかわらず憂鬱そうな顔だ。

「昨日の旦那がまたきてます。すぐに親方を呼んでこいって言ってます」


「誰だ?」

「ピエルフランチェスコ・リッチョ氏ですよ」


「リッチョ? あの公爵の執事か? あんた、何をやらかしたんだ?」


「なんにもしちゃいない」

 ジャンニは腰につけている巾着袋をはずした。

「あの薄ら馬鹿、くそ面倒なものを押しつけてきやがったくせに、おれが感謝して当たり前だと思ってる。ごうつくばりのぺてん師につかまされた宝石なんかよこして、公爵が喜ぶ仕事をしろとせっついてくる」


 ジャンニは袋の中身を机にばらまいた。


「小銭なんか出して何やってるんだ? 重くて邪魔ならおれがもらってやるよ」

「死んだヤコポの口から出てきたんだ」


 伸ばそうとしていたトニーノの手が、それを聞いて止まった。

 古びたクアットリーノ貨が56枚。


「口に入っていたのは45枚だ。残りの11枚は河原に落ちてた」

「どうして銅貨が口の中に?」


「自分で飲み込もうとしたんでなけりゃ、誰かが入れたんだろう。残りは、ばらまいたのか、死体を捨てたときにこぼれちまったのかどうかはわからん」


「河原に落ちていた銅貨も犯人のしわざだって、なぜ分かるんですか? あの辺の染毛職人が落としたのかもしれないのに」

「職工がいるのはもうちょっと川下だよ。それに、見ろ」


 ジャンニは1枚をつまんで手のひらにのせた。


「このクアットリーノ貨は溶けてる。程度はいろいろだけど、死体のまわりで見つかった銅貨はどれも溶けてるんだ」


 大きさや刻印は様々だが、聖人の図像や文字が部分的に薄くなっていた。硬貨の原形をとどめていないものさえあった。


「なぜ銅貨が溶けるんだ? 硬い金属じゃないか」

「銅を溶かすのはそんなに難しいことじゃない。ある種の薬品に漬ければ煙になって消えちまうよ」


「どんな薬品だ?」

「いろいろだ。うちの工房にもあるよ。王水なら金も溶かす。ヤコポを殺したやつはそういう薬で変形した銅貨をたくさん持ってたんだ。けど、なぜそれを口に詰めるような真似をしたのか分からん」


「食おうとしたんじゃないか?」

「どうして銅貨を食うんだ?」


「さあ。腹をすかせてれば何でも食い物に見えるって言うだろ?」

「誰もがお前さんみたいに食い意地が張ってるわけじゃない。ところで、北のほうの農場でも死体が出たらしいな。チェスコ、知ってるかい?」

「いいえ。どこの農場ですか?」


 あのヤコポ・ディ・バルトロはひどく憎まれていたんだろう、とジャンニは思った。でなければ、誰があんなふうに顔を叩きつぶしたりする。

 だが、顔を潰された死体が他の場所でも出たというのは妙だった。


「おれは姿をくらますよ。工房にはリッチョのあほうがいるし、ここにいりゃ退屈な会合だ」

「昨日の午後もとんずらこいたろう。ラプッチはかんかんだ。さっきもあんたを捜しまわってた」

「近頃じゃ、おれに会いたがってるのは男だけなのか? フィレンツェもおしまいだ。ますます逃げ出したほうがよさそうだよ」


 ミケランジェロが慌てた。

「どこへ行くんですか?」


「サン・ドメニコとやらへ行ってくる。ちょいと話を聞いてみよう。工房に戻るよりはましだ」

「そんな、困ります。リッチョ氏がえらい剣幕で怒鳴ってるんだから。今すぐ戻らないと兵を呼んで親方を逮捕させるそうですよ」

「やなこった」


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