第15話 夕暮れ

 礼を言って背中を向けると、女たちの声は急にひそひそしたものに変わった。


 ――あの娼婦、また男をたらしこんで。


 床に桶が積みあげられ、小さな水差しがてっぺんに置かれてあった。脇にはこぎれいな横長のたらい。

 戸を叩き、しばらく待った。


 応答はなかった。


 部屋を間違えたかと思いはじめたとき、内側で掛け金のはずれる音がした。扉が細く開いて、若い女が顔をのぞかせた。片方のまぶたが腫れ、半分ふさがっている。


 知っている女だった。


 警察長官庁舎の中庭で見かけたことがある。しかし、殴られた痕があることには気づかなかった。遠かったのと、女がすぐに顔をそむけてしまったからだろう。


 一通目の召喚状の時にはすらすらと前口上が出てきたのに、急に何を言えばいいか分からなくなってしまった。


 レンツォは咳払いした。

「ラウラってのはあんたか?」


 女はうなずいた。


「八人委員会が……」


 途端に女の表情がこわばった。話を聞き終わる前に扉を閉めようとしている顔だ。


「いや、その、これを届けにきたんだ」


 毒蛇を見るかのような目つき。


 戸口から手だけ出して、女は書状をつかんだ。


 八人委員会が彼女に出した書類は事件の被告に送るものとは異なり、もっぱら単純な用件に用いられる書式だった。何を警戒しているのだろう。なぜか分からないが、しくじったのは間違いない。何か言わなければ。が、頭をひねっているうちに扉が閉まってしまった。あっという間だった。


 しばらくその場に佇み、レンツォは自分を罵りながら階段を降りた。なぜ気のきいた文句のひとつも言えないのか。けっこうきれいな女じゃないか。


 日が暮れかけていた。バスティアーノは詰め所で机に脚をのせ、剣の柄についた汚れを爪でこすっていた。


「看守は怒ってたぞ。お前が囚人がぶちのめしたのを黙っててもらうために、守衛に頼み込まなけりゃならなかったって」


 警察長官庁舎で働くようになってから今まで大きな問題を起こすことなく、なんとかうまくやってこられたのはバスティアーノのおかげだ。レンツォはそれを忘れたことがなかった。


「あいつはこすっからいんだよ。おれにもあんたにも金を借りてるくせに、自分の貸しは絶対忘れないんだから」


「それにな、ルカを捕まえた件だけど、あの宿の主はグリフォーネに賄賂を払ってたらしい。お前はやつの面目を潰したってことだ。おれたちだって金をもらって微罪を見逃すことはある。あの宿を手入れしたってことが耳に入れば真っ先に難癖をつけにくるぞ」


 ジュリオ・グリフォーネは警邏隊の隊長だった。酒と不摂生のせいか、近頃は腹がたるんで首に肉がつき、猟犬グリフォーネという渾名はそぐわなくなりつつある。


「宿の主がやつに金を払って博打を見逃してもらってたからって、おれには関係ないだろ」

「上の連中の恨みをかうような真似をするなってことさ」

「そんなことより、ペロはどうなったんだ? 八人委員会に引き渡されたらしいけど」

「明日拷問にかけられる。スティンケから出されて取調室へ入れられたが、尻をまくって裁判官をおちょくり、喋ってほしかったら舐めろと言ったんだ」


 レンツォは八人委員会の拷問器具を思い浮かべた。警察長官庁舎の職員はその拷問器具を〈縄〉とだけ呼んでいる。取り調べに立ち会ったことはなくとも、その簡単な仕掛けがどれほど効果的かは知っている。


「尋問にはリドルフィ長官も同席するんだろう?」

「主導権は八人委員会が握るだろうがね」

「ルカが言ってた、牢獄でペロと一緒だった別のヴァレンシア人ってのは誰だと思う?」


 バスティアーノはすぐに答えた。

「ベルナだ」


「やつは釈放されてる。ヤコポを殺したのはやつだ」

「おれもそう思うよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る