第13話 憂鬱
「ああ。戸棚の鍵はどこだっけ?」
ジャンニは腰につけた巾着袋をさぐったり、股ぐらに手を突っ込んだり、積んである本をどかしたりした。
「くそ、鍵がない。まあ、そういうことだ。どっかのいかさま商人が公爵にガラス玉を売りつけたせいで、おれの仕事が増えた。ただでさえ忙しいのに……ところでミケランジェロ、サン・ドメニコの農園を知ってるかい?」
「フィレンツェの北のほうですよね。知っています」
「死人がそこで見つかったそうじゃないか。誰が死んだのかな?」
なぜそんなことを知りたいのか、とミケランジェロは思った。
「農園で働いていた男だそうです。顔をひどく殴られ、見つかったときはすでに息がなかったとか」
ミケランジェロは北東にある小さな街、フィエゾレの生まれで、その話を耳にしたのも故郷を出てフィレンツェへくる途中のことだった。
フィレンツェに行くよう勧めたのは父親だ。
古代の彫像や青銅像を蒐集し、かの高名な建築家で彫刻家のミケランジェロ・ブオナローティにあやかった名前を息子につけておきながら、彼は息子がそういう技術の道に進む意志をあらわにすると難色を示した。自分の息子が薄汚い工房で汗と鉄くずにまみれて鍛冶屋の真似事とは由々しき事態というわけだ。
普通なら、10歳か11歳くらいで徒弟修行に入る。しかしミケランジェロが父親の反対を押し切って小さな彫金工房に弟子入りしたのは14歳のときだった。寝る暇も惜しんで技術の習得に励んだ。自分より年下の少年に下っ端扱いても不平も言わなかった。ついに息子の熱意に負けたのか、こんな田舎にいるよりはと、父親はフィレンツェにいる古い友人で彫金師だというジャンニ・モレッリを彼に紹介したのだ。
ミケランジェロにとっては不本意だった。小さな工房だったが、それなりに満足してやっていたのだから。
やはり、追い出されたのだろうか? あのことに勘づいたのかもしれない。
ミケランジェロは義理の母、シモーナのことを思った。
彼女はその晩、火のそばで縫い物をしていた。猫をなでながら。あのとき、扉の陰から長いこと見つめすぎたかもしれない、それで父は疑いを抱いたのか。
いや、そうは考えられない。もし気づいていれば殺すだろう、たとえ自分の息子だとしても。だが、それも確信はもてなかった。想像はしたくないし、できない。
息子が15才も年の離れた父親の再婚相手に横恋慕していると知ったら、父親はどう思うんだ?
たぶん、これでいいのだ。
道ならぬ愛欲に溺れた者は、地獄で黒い風に吹き飛ばされる。義理の母親に邪な欲望を抱いた自分に、フィレンツェのような悪徳の街はふさわしい。喜んで流刑になってやる。シモーナのことを考えてもしかたがない、もう思い出すのはやめよう。でも、願いが叶うなら彼女とふたりで過ごしてみたい。そうなったら死んでもいい、父親に殺されたっていい。だめだ、ああ、もう考えるな。
「なにをしょぼくれた顔してるんだ? そうだ、街を案内してやる約束だったな。おれの爺さまと親父が昔どこで働いてたか教えてやるよ。ついてきな」
シニョリーア広場へ出て商業裁判所の前を通り、まっすぐ北へ向かえば、道の両側に立ち並ぶ建物のあいだにフィレンツェの大司教座聖堂、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が見えてくる。午後の陽射しを浴びる優美な薔薇色の丸屋根は、ミケランジェロの自虐心を少しだけ緩和した。
数カ月前に雷が落ち、丸屋根の上にある大理石のランタンが壊れ、一部は完全に破壊されてしまったらしい。頂部を取り囲むように組まれている木製の足場は、落雷で粉々になった箇所の修繕のためだろう。
大勢の石工が駆り出されて作業にあたっているとのことだった。だが、大聖堂そのものがあまりに巨大で、今日もそこで作業しているはずの職人たちの姿は地上からは見えない。金属を石に打ちつけるような、かすかな断続音だけが風に運ばれて伝わってくる。
このランタンは以前にも落雷で壊れたことがあり、石工だった祖父と父親も修繕に関わったとジャンニが言った。
「頂上まで登るのは大変でしょうね」
「ああ。内部は二重構造になっていて、くねくねした石段を登っていかなけりゃならない。足腰が弱って登れなくなろうものなら、どんなに長年務めていたとしても最後の賃金だけをもらっておさらばさせられたもんさ」
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