第12話 記録保管庫

 ジャンニは文書保管庫に入った。文書係助手のチェスコが記録簿を片手に梯子に登り、棚の文字を目で追っていた。


「マウリツィオ・ランフレディってのは誰だい?」


 文書係助手は梯子を降りてきて答えた。

「フィレンツェの名家のひとつ、ランフレディ家のピエロの息子ですよ」


「どうも聞いたことがある名前なんだよ。そいつはどこかで別の悪さをしてないかい?」


「暴力沙汰の関係者として何度も名前が挙がっているからでしょう。口論の相手を殴り殺しそうになったこともある。不起訴になりましたが。暗がりだったせいもあって、被害者は相手がマウリツィオだったと断言できなかったんです」


「他には?」


「3年ほど前、夜更けに道を歩いていた男が後ろから刺されました。下手人は逃亡しましたが、マウリツィオの手下だという密告がきています。両者の間には諍いがあったそうで。しばらく前にはポルタ・ロッサ通りの複数の家の戸口に大便が塗りたくられているのが見つかりました。誰がやったのか分かっていませんが、これらの家に住む人は皆ランフレディ家に敵対しているらしいんです」

「それだ!」


 チェスコの手から記録簿をひったくり、ジャンニは頁をめくった。


「うちの徒弟のリージが、夜中に誰かが家の前にくそを垂れた、やったのはマウリツィオだってこぼしてたんだよ。しかしまあ、札つきの悪党だな。しょっぴいてこなくていいのかい?」


「彼が〈黒獅子〉亭でパゴロ・ボンシニョーリに斬りつけた件はご存じでしょう。マウリツィオはそのまま逃げたんです。八人委員会は出頭命令を出していますが、姿を現さないところをみると逃亡したようですね」


「けど、ランフレディ家も名家の面汚しみたいな男を野放しにしとくつもりじゃあるまいに」


 チェスコは左右をうかがって、誰もいないのを確かめてから声をひそめた。

「マウリツィオは父親のピエロが召使いの女に産ませた子なんです。妾腹とはいえ、長男だから溺愛して甘やかしたんでしょう、自堕落なろくでなしになってしまった。ピエロは評議会に席を置いていますし、一族の他の男もなんらかの政府の職についているのに、マウリツィオだけはいまだにぶらぶらして遊び呆けているんです」


 中庭で話し声がした。八人委員会の兵が1人の男を地下牢に連行していくところだった。


「スティンケから脱走を企てたというスペイン人ですよ。さっき、警察長官の筋から企みが露見したんです。しかし、八人委員会の兵が出張ってきたところをみると、リドルフィ長官はこの件には手を出さないことにしたのかな」


 エットレ・リドルフィはジャンニとは旧知の間柄だ。好奇心をそそられ、ジャンニは後についていこうとした。

 いきなり扉が大きく開いてマルカントニオ・ラプッチが姿を現した。


 八人委員会の最高位役人は黒の長衣をまとい、脱いだ革手袋と分厚い記録簿を片手に持っていた。贅肉のない引き締まった顔は一切の感情をあらわさず、薄茶色をした目の奥に強固な意志だけがうかがえる。


 ジャンニは慌てて引き返そうとした。が、遅かった。フィレンツェ公爵の信任厚い高官の声が中庭まで響き渡った。


「ジャンニ!」


 ラプッチは長衣の裾をなびかせ、つかつか近づいてきた。


「毎日の会合に君だけが出席しないという報告が届いている。由緒ある市民裁判官に選ばれておきながらどういうつもりだね?」


「妙だな。おれは会合を忘れたことなんかないのに。今朝だってちゃんと足を運びましたよ」


「とぼけても無駄だ、金細工師。君の態度は市民裁判官としての自覚に欠けている。朝と午後の会合だけでなく、嘆願状の審査にも姿を現さないというではないか。しかもその風体は何だね。八人委員会にいる間は正装をするようにとあれほど言ったはずだ。その薄汚れた格好でこの建物の門をくぐることは明日以降は許さない、分かったかね?」


 ジャンニは明日から耳栓をしてこようと思った。げっそりして書庫に戻った。


「ケルベロスにつかまっちまったよ。じゃあな、チェスコ。おれは帰る」


「嘆願書の審査会議に顔を出さないと、またどやされるのではないですか?」


「やだね。そんなもん、頼まれたって出るもんか」

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