第11話 パゴロの証言
ジャンニは武装した守衛のいる通用門をくぐった。しゃれた装飾のある中庭だが、片隅に置かれている首斬り台を見れば嫌でもこの建物の役目を思い出すことになる。警察長官庁舎は刑事法廷であると同時に未決囚の勾留所であり、罪人の処刑が行われる場所でもあった。
ジャンニは溜息をついた――こんな陰気なとこで4カ月も裁判官をこなさなけりゃならないとは、まったくもって運が悪い。
ジャンニは刑法の知識など持ちあわせていない。望んで市民裁判官になったわけでもなかった。
フィレンツェの行政職の一部は公爵が直接任命しているという噂もあるが、少なくとも表向きは、裁判官は資格保有者からくじ引きで選ばれることになっている。そうして選ばれた人々の中には法律の知識のない者もいる。むしろ、何らかの知識のある者より無知の者のほうが多い。
それでも選挙管理官によって自分がにわか裁判官に選出されたと聞いたとき、ジャンニは何かの間違いではないかと思った。
裁判官の補佐役である終身の上級官僚、書記官マルカントニオ・ラプッチもそれは同じだったらしい。
登庁1日目、ラプッチはジャンニを白い目で見た。他の市民裁判官が伝統的な長衣をまとっているなか、ジャンニだけが着古した仕事着によれよれのマントだったからだ。自分も含む高級官僚が出入りする由緒ある宮殿にぼろ雑巾みたいな格好で現れるとはけしからんというわけだった。叱責されてもジャンニが態度を改めないと知ると、何事にも潔癖なラプッチの眉間には皺が刻まれ、口元はますます険しくなった。
取調室には小さな机が置かれ、壁に固定された裁判官用の座席があった。座面は固いが、なかなか居心地がいい。座ったまま足をぶらぶらさせていると、トニーノに伴われて1人の男が入ってきた。
ジャンニを見て、男は眉間に皺を寄せた。
「おい、私は市民裁判官のところへ案内しろと言ったはずだぞ!」
「彼が市民裁判官のジャンニ・モレッリですよ、パゴロさん」
40歳を超えてはいないだろうが、たるんだ首の肉のせいでそれ以上の年齢に見えた。衣服の喉のあたりは窮屈そうで、襟元の小さなボタンがはち切れんばかりだ。
「こいつは誰なんだ?」
ジャンニは小声でトニーノにたずねた。
「パゴロ・ボンシニョーリだ」
と、下級役人は同様に小声で答えた。
「態度に気をつけたほうがいい。評議員に選ばれたばかりで議会では新顔だが、公爵のおぼえはめでたい。にわかに出世の階段を駆けあがろうとしてるところは、我らが書記官と同じだな。中身が下劣なくそ野郎だってことも」
パゴロは疑惑のまなざしでジャンニを眺めまわしている。
「八人委員会の裁判官は我々のような議員から選ばれるものと思っていたが。こんな薄汚い職人風情がいるとは知らなかった」
「おれも、あんたみたいな威張りくさった食いすぎの豚が評議会にいるとは知らなかった」
「なにか言ったかね? よく聞こえなかったが」
「いや、こっちのことです。まあ楽にしてください、ええと、パゴロさん。このたびはご足労いただいちまって――」
そこで、パゴロ・ボンシニョーリがなぜここに呼び出されたのかを知らないことに思いあたった。
書記席に置かれた記録簿をめくってみた。が、ぎっしり詰まった小さな文字にめまいを起こしそうになっただけだった。
「巷で聞くところによると、たいそうな目にあったそうじゃないですか。確か、淫売宿で斬りつけられたって?」
パゴロの顔が紅潮した。
「淫売宿ではない。居酒屋だ」
「どこの居酒屋だい?」
「〈黒獅子〉亭だ。あの男は突然乗り込んできた。どうせ君らはあの男の居所さえつかんでいないのだろう。こんなことをしてる暇があったら捜す努力をしたらどうなんだね?」
「努力はしてますよ、もちろん」
ジャンニは訳知り顔をつくった。だが、パゴロが誰のことを言っているのか見当もつかない。
「しかし、あんたからも事情を聞いておかなけりゃならないらしくてね。だからこうしてお越しいただいたわけですよ。それに、実を言うと、おれは7日前に市民裁判官になったばかりなもんで。よければ、おれにもわかるように話してほしいんだけどね」
「私を襲ったのはマウリツィオ・ランフレディだ。先月のある晩、その〈黒獅子〉亭で食事をしていると、いきなりやってきて刃物で斬りかかってきた。友人らがいなければ、私はあの場で殺されていただろう。腕を2カ所も切られて、しばらく寝込むはめになったのだからね」
「彼とのあいだに諍いでもあったのかい?」
「いや、ない」
ジャンニは尻を前にずらした。肘かけは、彼にとっては高い位置にありすぎた。
「だったら、どうしてあんたを襲ったんだ?」
「わからんね。ああいうならず者のすることに理由なんかあるのかね。マウリツィオとはここ数年は話してもいない。まあ、昔は親密にしていた時期がないわけでもないが、あの放蕩ぶりは目に余るものがある。私は近頃は忙しい身で、つきあう人々も増えた。一部の友人と疎遠になってしまうのもしかたがないよ」
なるほど。評議員ともなれば、酒と遊びにうつつを抜かしていた時代の仲間とは距離を置きたくなるってわけだ。
「議会がはじまるから私はこれで失礼させていただくよ。それと、この件は君には荷が重すぎる。もっと経験を積んだ裁判官に任を譲りたまえ」
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