2 溶けた銅貨の謎
第9話 河原の死体
レンツォは河原の階段を降りた。周辺にはすでに人が集まっている。
人だかりの真ん中で、よれよれのマントをはおった男がひとり、背中を向けてしゃがんでいた。あたりを根城にしている浮浪者だろう。死体から金目の物を盗もうとしているのかもしれない。レンツォは近づいていって首根っこをつかみ、脇へ押しのけた。
アルノ川では、上流からときおりおかしなものが流れてくる。いつだったか、女の死体が浮いていた。たらいに入った、生まれたばかりの小さな赤ん坊が見つかったこともある。すでに死んでいたが、誰の子なのか、いつどこで捨てられたのかも分からずじまいだった。
この死体も上流のどこかから流されてきたのか。
壮年の男だ。体は横向きで、寝返りをうつような姿勢だった。めくれあがった肌着から腹の毛が見え、足は水に浸かって流れにそよいでいる。顔は殴られたようだ。頬と目の周りが黒ずみ、ひしゃげた鼻に固まった血がこびりついている。
ずぶ濡れだが、流れてきたにしては服がきれいで、泥汚れもついていなかった。
土手や欄干にも見物人が詰め寄せていた。レンツォは声をあげた。
「誰か、この男のことを知ってるか?」
「運搬人のヤコポだよ」
レンツォは振り向いた。あの浮浪者だった。のんびり近づいてくる。
「昔はよく、この男からトレビアーノの葡萄酒を安く売ってもらったもんさ。こんなことになっちまって、かわいそうに」
たいして気の毒だと思っていない口調だ。男は死体の前にしゃがんだ。やけにふてぶてしい老人だが、よく見ると、浮浪者というより熟練の職人のような剛胆な面がまえをしていた。
「あんたは誰だ?」
「ジャンニ・モレッリってもんだ」
死んだ男の顔にじっと見入る。
「なんにせよ、水かさが少ないからこうして見つかったんだろうな。増水してたらこの男はピサまで流れていったにちがいないよ……おや、あそこにいるのはネリじゃないか?」
ジャンニ・モレッリは土手を見あげていた。見物人の中に、街の外科医ネリ・ナルディの顔がある。それから死体を指さして、レンツォに言った。
「お若いの、こいつを仰向けにしてくれないかい? ちょっと調べてみたいんだ」
仰向けにする? レンツォは死体の顔をじっと見た。赤カブのように腫れた顔が急に目の前に迫ってきた。思わず唾を飲み込んだ。こんなところで無様をさらすわけにはいかない。
「いいかげんにしろよ、あんた誰なんだ? ここから立ち去れ。じゃないと牢にぶち込むぞ」
「おれをぶち込む暇があったらこいつの顔を潰した野郎を捕まえたらどうなんだい?」
外科医が土手を降りてきて、あいだに割って入ろうとした。
「やめろ。ジャンニは八人委員会の裁判官だぞ」
レンツォは自分の目を疑った。こいつが? この乞食が市民裁判官? こんな無能そうな老いぼれが、たった4カ月の任期でおれの1年の給料を上回る報酬をもらうのか!
「いい身分なんだな。けど、あんたのような老人にはちょっと重すぎる任務じゃないかい」
「マルカントニオ・ラプッチもそう思ってるみたいだよ。やつと意見が合うのはどうもそこだけらしくてね」
外科医は、無惨な死体を見ても眉をひそめさえしなかった。八人委員会の依頼で死体を検分したり、被害者の体にある打ち身や切り傷の数を数えたりするので慣れているのだろう。ひざまずいて死体の肌着をはぐった。
赤や黒の痣に覆われた肌があらわになった。
ジャンニの声が後ろから聞こえた。
「うえっ、ひどいな。これだけやられたらひとたまりもないよ。どうしてこんなことに……」
レンツォは市民裁判官の前では一言も漏らすつもりはなかった。ルカから手に入れた情報を、バスティアーノはもう警察長官に報告したはずだ。警察長官エットレ・リドルフィは表向きは八人委員会と連携して協力体制をとっている。だが、重要な案件は市民裁判官の裁量に任せたりしない。リドルフィが八人委員会の最高位役人、マルカントニオ・ラプッチとすぐに話をするどうかは分からないが、するとすれば市民裁判官の頭越しだろう。
バスティアーノが見物人をかきわけて歩いてきた。死体のそばで立ち止まり、集まった人を見まわす。
「金細工師のジャンニ・モレッリ親方はいるか?」
「おれだ」
「トニーノが警察長官庁舎へきてもらいたがってる。八人委員会の仕事が待ってるそうだ」
「そうだった、うっかりしてたよ。ちょいと見物したらすぐに向かうと言っといたんだった。やれやれ」
川下では染毛職人が忙しく立ち働いていた。死体がある場所は街の中心部ではあるものの、市場や大通りの喧噪からは遠く、対岸には緑豊かな丘がひろがっている。ほとんど田舎の小都市といった風景だ。
バスティアーノが近づいてきて声を落とした。
「ヤコポか?」
この死体がヤコポという男なのかどうかに関しては、ジャンニと名乗ったさっきの市民裁判官の言うことを信用して間違いなさそうだった。
「そうだ」
ルカによれば、別のもうひとりのヴァレンシア人が牢から釈放されている。ごろつきどもには結束の固いのもいれば、簡単に裏切るのもいる。悪事を企てたが、なんらかの理由でヤコポが邪魔になり、始末したということはありうる。
「北のほうにある農場でも死体が見つかったらしいな」
バスティアーノが言った。
「どこで?」
「サン・ドメニコ」
フィレンツェの北東にある修道院だ。農場も、確かその近くにあったはずだ。
「誰が死んだんだ?」
「そこまでは知らない。しばらく前の早朝だそうだ。誰だかわからないくらいに顔が腫れて、頭が割れていたらしい」
外科医がジャンニを呼んだ。
「どうしたんだい、ネリ?」
ネリは河原に膝をつき、じっと死体の顔に見入っていた。
「手伝ってくれ。この男の口の中を見てみたいんだ」
「なぜだい?」
外科医は答えず、指でヤコポの唇をめくった。歯のあいだに光るものがはさまっているのが見えた。
聖人の像が刻印された、古い銅貨だった。
クアットリーノ貨と呼ばれ、イタリアのほかの都市でも流通しているありふれた銅貨だ。
ヤコポは上下の顎で銅貨を噛んでいた。
固く噛みあわされた顎は3人の男の力に抵抗した。ジャンニが自分の懐から尖った工具を取り出し、折れた歯の間にねじ込んだ。続いて口腔に指を入れ、まさぐった。ぬらぬら光る銅貨がまた見つかった。
また一枚。
もう一枚。
外科医のネリが珍しく罵りの言葉をつぶやいた。
濡れて輝く銅貨が草地に積みあがった。
「こういうのをなんと言うんだっけな? 昔のギリシアには死者の口に硬貨を入れる習慣があったって聞いたことがある。冥府の川の渡り賃だそうだ」
ジャンニは死体の腹に工具を置き、革の前かけで手をふきながら1枚のクアットリーノ貨を眺めた。
「金はあらゆる扉を開かせる鍵、か。この哀れな男のために開いたのが地獄の扉じゃなかったのならいいけど」
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