第4話 疑問

「ぼくは親方の潔白を証明しようとしたんです」

「お前さん、都会は初めてらしいな。そのうちに街を案内してやるよ、くそ面倒な任務から解放されたらな。ここんとこ忙しいんだ。けつをふくのも忘れそうだよ」


 フィレンツェは長らく共和国の名を馳せていたが、1527年に政府が交代してからメディチ家の君主に統治されるようになっていた。10ヶ月に及ぶ包囲戦から15年が過ぎたとはいえ抵抗の傷痕はいたるところに残り、まだ荒廃している農村もある。


 しかしアルノ川で死体が見つかったとはどういうことなのか。

「親方、さっき……」


「そのくそ面倒な任務ってやつがあんたを待ってますよ、ジャンニ親方」


 いつのまにか陳列台の前に別の男がいた。格好から、役人だとわかる。にきびがあり、髭の剃り跡が赤い。


「誰だい、あんたは?」

「トニーノです。もう忘れちまったんですか?」

「ああ、そうだったな。悪かった、耄碌してるんだ」

「今朝の八人委員会の会議もお忘れだったようですね」

「会議? そんな面倒くさいもんに出なけりゃならないのか?」

「あんたは裁判官に任命されたんですからね。忘れてもらっちゃ困りますよ」


 八人委員会はフィレンツェの刑事裁判を司る法廷だ。先程ジャンニが言った「面倒な任務」というのは、どうやらそのことらしい。


「会議は朝と午後。今日はこれから〈黒獅子〉亭の被害者の聴取があります。で、おれがあんたを呼びにつかわされたってわけです。午後には市民から寄せられた嘆願状の審査もありますから、首に縄をつけてでも引っぱってこいってわけで」



 *



 ジャンニ・モレッリ親方の工房は2つの区画に分かれている。売り場には作業台が2個、奥にもっと大きいのがひとつあるが、どれも略奪の後のように散らかっている。床は描きかけの素描だらけ、机の上には紐でくくった手紙や帳簿の束、色褪せた猥褻本や性交体位素描集が鼻をかんだ布と一緒に積みあがり、頂上では陶製のすり鉢がゆらゆら揺れている。羽根ペン、チョーク、折れた工具、硬くなったチーズを突っ込んだ丸い鉢は手垢まみれ。窓際に並んだ葡萄酒の瓶にこびりついている黒っぽい染みはいつのものだろう。


 またあの疑問がミケランジェロの頭に浮かんだ。


(これが、フィレンツェでも名のある彫金親方の工房か?)


 職人の仕事場は活気溢れる大通りにあるべきだ。腕を磨くには人の目にさらされるのが一番いい。ところがここはどうだ、ごみだらけの路地じゃないか。そもそも、宮廷お抱えの工匠が、こんなうらぶれた路地に拠点を構えているはずがない。弟子入りしてまだ10日しかたっていないが、親方が無能だという事実にミケランジェロはそろそろ気づきはじめていた。


 父はなぜ、ジャンニ・モレッリ親方の工房なんかに行くよう息子にすすめたのだろう。


 僕は体よく追い出されたのだろうか?

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