Live.84『父よあなたが嫌いだった 〜THE DUTY OF A FATHER〜』

 主人の手を離れたエドが、悲しげに鳴き声をあげる。

 それが死闘の始まりを告げる合図となった。

 支社長室の中央でいがみ合っていた二人は、ほぼ同時に動き出す。目の前にいるただ一人の肉親を、仕留めるために──。


 先制して攻撃したのは、当然ながら銃を持った匠の方だ。

 彼女はほんの一瞬で照準を定め、ウィルフリッドが接近するよりもはやくトリガーを引く。

 一切の無駄な感情を排した、完璧なまでの頭部を狙った射撃ヘッドショットだった。


 ……が、放たれた弾丸はウィルフリッドの額を貫くばかりか、頬をかすめさえもしなかった。

 銃弾の軌道を読みきっていたウィルフリッドは、なんと頭をわずかに逸らすだけで回避してしまったのである。


「!」


 いつの間にかすぐ目の前にまで迫っていたウィルフリッドへ、匠はすかさず拳銃を応射する。

 しかし弾丸のことごとくはただ空を切るだけであり、その間にもウィルフリッドの丸太のような腕が匠へと伸ばされていた。

 かくして一発も命中しないままふところに飛び込まれてしまい、掴まれた手首をグイッと捻られる。腕がねじ切れるかと思うほどの力だった。

 匠の視界が縦方向に大きく回転し、背中から床に叩きつけられる。

 すぐに構え直そうとした銃も、まるで思考を先読みされたかのように蹴り飛ばされてしまった。


「ちィ……!」

「あまり父親をめないほうがいい。お前の考えていることなど、手に取るようにわかるのだヨ」

「ネグレクトをしていたあんたが言うこと……くッ……!?」

「本当サ」


 ウィルフリッドは匠の胸ぐらをひっ掴み、ボロボロの彼女を引き摺りながら歩き出す。そしてガラス張りの展望の前まで来ると、そこへ軽々と持ち上げた匠のからだを勢いよく叩きつけた。

 防弾処理を施された分厚いガラスはまるでコンクリートさながらの硬さであり、先ほど床面に叩きつけられたとき以上の衝撃が匠を襲う。


「『江ノ島の名はもう捨てた過去だ』──と、お前はかつて言っていたネ」

「なに……を……」

「だが、家族には決して切れることのない“縁”がある。血縁、因縁いんねん、愛縁、奇縁、悪縁……それらはまるで強固な糸のように結びつき、ワタシたち親子の運命を決定づけた」

「あんたとの縁など……とっくに断ち切っている……!」


 匠が言い返すと、ウィルフリッドは言葉の代わりに押し付ける力をより一層強める。

 凄まじいまでの腕力に首が圧迫され、このまま溺れるかとさえ思った。


「そう、絶もまた“縁”だということダ……お前は母さんのことを想うが故に、こうしてワタシの前に立ちはだかっている。それは紛れもなく、家族という名の絆が存在していることの証明ではないかネ」

「その絆を歪めたのはあんただ……! あんたが私と母を捨てたから……家族を愛さなかったから、になっているんじゃあないのか……!?」

「……いいや、逆なんだよティニー。愛していなかったのではない……」

「なに……?」

「ワタシはずっと、今でも母さんとお前を愛し続けている」


 そう言ってのけたウィルフリッドの言葉に、思わず匠の思考が停止しかける。


 この男は何を言っている?

 あれだけ私の希望を裏切り、母の思いを踏みにじっておいて、そのうえで『愛している』だと……?


「あんたは……いったい何が目的なんだ……?」

「全人類が誤解なく愛し合える、優しい世界……それがワタシの心からの望みであり、我々の計画──“プロジェクト・ヌーディストビーチ”の最終到達目標だヨ」


 匠が問いかけると、拍子抜けするほどにあっさりとウィルフリッドは答えた。





 ──人間という生き物は、あまりにも多くの欠陥を抱えすぎている。


 かねてよりウィルフリッド=江ノ島という男の内面は、そういった懐疑心や不安感に埋め尽くされていた。


 例えば、環境。

 もともと人は母なる地球で誕生した種族であるにも関わらず、強大な力をもつ自然を前にしては実に非力である。人体には過度な暑さや寒さに耐えるだけの能力がないし、ましてや大気の存在しない宇宙では、ろくに活動することさえままならないからだ。


 だが同時に人類は、それを克服する手段を知っている。

 生きられない環境ならば、生きられるように“適応”してしまえばいい。

 大多数の生物が“進化”を経ることで行ってきた行程を、人類は“道具”に頼ることで補ってきた。その最たる例こそが、己の身体にまとうもの──“衣服”である。


 人は衣服を纏うことで様々な環境に適応し、やがてその生存圏を飛躍的に拡大させていく。

 さらには宇宙服が開発されたことによって、今までどの生物もなし得なかった宇宙進出という偉業さえも成し遂げるようになった。

 いわば“衣服”とは、人類という生物の“進化”そのものを体現した存在といっても過言ではないのだ。


 ──が、しかしだ。

 どれだけ強固な衣服を纏おうとも、心の脆弱よわさだけは守り切れない。

 

 人と人のコミニュケーションには、常に誤解や衝突というものが付きまとう。

 月や火星に行けるようになった現代においても、それは変わらない。


 先入観や思い込み、さらには国や人種の違いによって、いまだに人類は本当の意味での“相互理解”を達成できずにいる。

 その悲しきすれ違いは、恋人や家族など近しい関係の間でさえも起こり得る……極めて普遍的なものだ。

 円満とは言い難いウィルフリッド自身の家庭事情が、何よりもそれを証明していた。


 『仕方のないこと』といえば、それまでである。

 しかし当時より宇宙服開発に携わっていたウィルフリッドは、そういった“心の問題”も衣服でどうにか補えるのではないかと考え、必死に模索したのだ。


 そんな胸のうちを親しい知人に話すと、決まって『それは悪魔の証明だ』『事実上不可能だ』と返された。

 その通りかもしれない……ということは、ウィルフリッドも薄々感じていた。

 衣服が進化すれば進化するほど、己の肉体を鍛えれば鍛えるほど、繊細だった彼はその事実に打ちひしがれていった。


「──だが11年前の火星有人探査のとき、ようやくその手がかりが見つかったヨ。“衣服ドレス”によって人の脆弱な肉体からだ精神こころを同時にする、人類の完全救済……それを成し遂げるための手段が」

「……それが、あんたがヴォイドの研究に着手するようになった本当の理由か」


 匠がたずねると、ウィルフリッドはコクリとうなずいてみせた。


「そうだとも。ヴォイドの持つ同期シンクロという現象……それを応用することで、人類は心というかせからようやく解き放たれるのサ」

「そんなこと、できるわけが……」

「可能だ。そのための段取りも、あと少しで全てが整う……『ほどこしの時』は、ようやく訪れる」

「施しか……傲慢ごうまんなあんたらしいな。神でも気取るつもりか」

「否定はしないヨ」


 ウィルフリッドは泰然たいぜんと微笑み、そう言った。

 だがその楽しげな表情も、次の瞬間には真剣なものへと変わっていた。

 彼は語気を強めながら、まるで世界そのものを呪うように言いつのる。


「だが、これは全ての人類が等しく抱えた願いだ。ならワタシは全人類の代表として、この“計画”を完遂してみせよう……いな、そうしなければならないのだ」


 使命感に満ちた瞳で、ウィルフリッドは告げる。


「ワタシは今度こそ、家族を……アリシアやティニーを正しく愛してみせる! 何に変えてもだッ!!」


 間違い続けてきた父親は、ハッキリとそう断言した。

 頑なに彼を『家族を捨てた男』と断じていた匠は、打ち明けられた意外な真意を前に固まってしまう。


 実際はその真逆。

 彼は誰よりも母や娘の自分を愛し、関係の修復を望んでいたのだ。


(そうか……どうやら私はあんたのことを、ひどく誤解していたみたいだ)


 ウィルフリッドの本音を聞き届けた匠は、彼に対する認識を改め始める。

 彼が『人類を救う手段』として語った“プロジェクト・ヌーディストビーチ”──その具体的な方法やその全貌については、まだわかっていない。

 だが、これで一つだけ明確になったことがある。


「あんたは私が思っていた以上に……」

「なに……ぐふッ!?」

滑稽こっけいで! 臆病おくびょうで! ひとりよがりな! ただの大バカ野郎だッ!!」


 痛烈な罵倒を浴びせながら、匠は渾身の頭突きを何度もウィルフリッドの顔面に叩きこんだ。

 高く突き出した鼻が潰れ、骨の折れるにぶい音とともに鮮血が飛び出す。

 やがて胸ぐらを掴んでいた手が解かれ、致命傷を食らったウィルフリッドはその場によろめく。

 匠の仲間がこの支社長室へと入ってきたのは、ちょうどその時だった。


「ティニーさん!」


 チラリと一瞥すると、入り口付近の壁に手をつきながら呼吸を整えている鞠華や嵐馬たちの姿があった。

 どうやら水見との戦闘でエレベーターが故障し、代わりに階段を使って最上階まで駆け上がってきたらしい。

 彼の後ろには平気そうな紫苑とレベッカ、そして敵対していたはずの百音もおり、全員がいたましい目で血だらけの壮年を見つめている。


「ハァ……ハァ……。……あんたの謳っていた理想は、やはり女々めめしいだけの絵空事だよ。こんな一人娘にさえも正しく愛を示せなかった男が、そんな都合よく人類に愛を振りまけると思うか……?」

「ならば、ワタシのこれまでの行いは……すべて無駄だったというのか?」

「……いいや、少なくとも意味はあった……と思う。どんな形であれ、あんたにも家族を思う気持ちがあったのだとわかった。ただ、伝える方法を間違えた……それだけだったんだよ。あんたも、私も……」


 再びウィルフリッドのほうを向き直った匠は、探るようなつたない言葉で語る。

 二人がこうして親子の対話をするのは、実に数年ぶりだった。

 父を恨み続けてきた娘は、そっと握り拳をほどいて告げる。


「本当に嫌いな人間であれば、得てして遠ざけるものだ……だが今思えば私たちは、互いにではいられなかったんだな。あんたは“慈愛”を、そして私は“憎悪”という感情を向けあったのだから……」

「ああ……娘に恨まれるのは正直、かなりこたえたがネ……」

「だが、誤解は解けた……“計画”なんて回りくどい方法に頼らずとも、剥き出しの感情をぶつけ合うだけでよかったのさ……」


 匠の言葉を受けて、ウィルフリッドもようやく“誤解”の意味に気付く。

 彼はこれまで、一切のしがらみなく互いを愛し合える世界こそが理想であると考え、それを美徳としてきた。

 だが、ひとえに“愛”といっても、そのカタチは無数に存在している。実娘に向けられ続けてきた“憎悪”という負の感情さえ、言うなれば愛がもつ側面の一つに過ぎないのだから。


 ウィルフリッドも匠も、家族に対して真っ当な優しい感情は抱いていなかったかもしれない。

 けれど二人はたしかに、互いを思い合っていたのだ。

 たとえそれが、いびつに歪んだ愛のカタチだったとしても──。


「そうか……はじめから、こうすればよかったのか……『喧嘩するほど仲がいい』とは、こういう意味だったのだネ……レベッカ君」


 ウィルフリッドは拍子抜けしたように肩を落とすと、冗談めかしく笑ってみせる。

 まるで裏切る以前と変わりない態度で接されたレベッカは、どう答えてよいのかわからず困惑しているようだった。

 すると、立ち尽くしていた百音が口を開いた。


「ウィルフリッドさん、あたしは……」

「モネ……キミにも謝らなければならない。こんな愛の示し方もわからなかったワタシの家族ごっこに、キミを付き合わせてしまったのだから……」

「……! そんなことない。たとえ偽物でも、家族がてきて嬉しかったから……!」


 それを聞くと、ウィルフリッドが少しだけ安心したように微笑んだ。

 彼はこの場にいる者たち全員のほうを振り向くと、改まったように深刻な顔で告げる。


「いいかネ、アクターの諸君。今よりワタシの話すことは、全て偽りない真実だ……そして何より時間がない。だから、心して聞いて欲しい」


 そう言われた鞠華たちはただ黙ってうなずく。

 ウィルフリッドは話を続けた。


「知っての通り、あと18時間ほどで東京へのミサイル攻撃が開始する。発射される弾頭の数は計108発……ここら一帯を火の海にかえて余りあるほどの量だ」

「それが、“未知なる侵略者アウタードレス”に対する世界の答え……」

「ったく、反吐が出るくらい酷ェ話だぜ」


 百音が呟き、嵐馬が機嫌の悪そうに吐き捨てる。

 

「だが、ワタシ達の目的は国連政府かれらとは別のところに存在している」

「先ほど言っていた、“プロジェクト・ヌーディストビーチ”……というやつか」

「そうだ。そして我々はその計画を実行するべく、三つの段階フェーズからなる作戦を立てた」


 合点のいったように匠が言うと、ウィルフリッドは神妙に頷いた。

 彼は人差し指で天井を指しながら説明を始める。


「まずは第一段階。その目標は、現存する7つのワームオーブを一箇所に集めること──作戦名オペレーション“アクターズ・アゲイン”」

「……! まさか、ミサイル攻撃を行うという情報を事前に流したのも……」

「そう、これはキミたち“ネガ・ギアーズ”を引き出すためのエサでもあったのサ。そしてこの一段階目は、現時点でほぼ達成されたと言っていいだろう」


 打ち明けられた事実に、レベッカは僅かながら動揺している様子だった。

 どうやら自分たちは、初めから彼の手の上で踊らされていた……ということらしい。


「次に第二段階、作戦名は“リンギング・ラストナイト”。アクターの諸君らには、これから発射されるミサイルの迎撃にあたって欲しい」

「なっ……!?」


 その作戦内容はあまりにもシンプルで、しかし無理難題むりなんだいとさえ言えるような要求だった。

 アクターたちが当惑するのは当然であり、嵐馬はすかさず反応する。


「迎撃って……108発を全部かよ!?」

「無茶は承知だが、不可能な話ではない。詳しい説明は後回しにさせてもらうが、アーマード・ドレスの性能を引き出せば可能なはずだ。

 ……特に、鞠華クンの“マスカレイド・メイデン”ならネ」


 ウィルフリッドがチラリと鞠華のほうを一瞥する。


(“マスカレイド・メイデン”が……?)


 もとはと言えば“マスカレイド・メイデン”というドレス自体、彼の策略によって鞠華へともたらされてしまったものだ。

 当初は単に鞠華をおとしいれるための行動だと思っていたが──もしかすると、あの出来事も彼の語る“計画”の一部に含まれていたのかもしれない。

 さっそくそのことをたずねようとした鞠華だったが、そう思ったときには残念ながらウィルフリッドの話は次へと進んでしまっていた。


「話を戻そう。最後の第三段階、ここからが最も重要だ……」


 ウィルフリッドはそう前置きしたうえで、“計画”の要となる最終段階の内容について語り始めた。


「ミサイルを迎撃されたことによりドレスの殲滅作戦に失敗した国連政府は、アーマード・ドレスがいかに強力な存在であるかを思い知るだろう。そして恐れおのいた彼らは、極秘裏に開発されていたあるの封印をく……それは」


 ウィルフリッドが何かを告げようとした、その瞬間。

 彼はハッと何かに気付いたように目を見開くと、隣に立っていた匠の体をいきなり押し退けた。

 銃声が響き、その場にいた全員の時間が止まる。

 ウィルフリッドの長身が揺らめき、匠にもたれかかるように倒れる。その背中に赤黒い染みがみるみる広がり、彼は呆気にとられた表情のまま、気がつけば匠に身体を受け止められていた。


「誰だッ!?」


 何者かが匠を撃った。

 そしてそれを庇ったウィルフリッドが、代わりに銃弾を受けてしまったのだ。


 あまりにも唐突すぎる事態に、全員が銃声のした方向を振り返る。

 支社長室の入り口──そこに立っていた発砲者の姿を見るなり、鞠華たちの間を戦慄が駆け抜けた。


君嶋きみじま……千鳥ちどり……!?」


 バーチャルアクターのチドリ・メイではない。

 生身の肉体を持つ10歳前後の少女が、しかし見かけとは不釣り合いな拳銃を構えてそこに立っていた。

 その銃口からは、まだ硝煙がゆらゆらと立ち上っている。


「残念じゃよ、ウィル……が、勝手な真似をしてもらっちゃあ困るのう」

「あなたは……! 待て、逃がすか……!」


 千鳥はそれだけ言うと、自らも取り押さえられる前に逃げ去ってしまった。

 血相を変えたレベッカが、紫苑や百音を引き連れてその跡を追う。

 あまりにも突然に起きては、嵐のように過ぎ去っていった一瞬の出来事。

 その僅かな間にも、匠に抱きかかえられている男の灯火ともしびは今にも消えかかっていた。


「あ、あんた……なぜ私なんかを……?」

「フフ……最後の最後で、ようやく父親らしい真似ができたネ……」

「最後だと……おい、ふざけるなッ! まだ話の途中だったはずだろ! 待っていろ……すぐに医療班を呼んでやる!」


 必死の形相ぎょうそうで叫ぶ匠だったが、そんな彼女の意に反するように傷口からは大量の血が止めどなく溢れ続けている。

 もうあまり時間が残されていないのだということは、もはや誰の目から見ても明らかだった。


「なあ、ティニー……最期に一つだけ、聞き届けてほしいことがある……」

「なんだ……」

「エドの……ワタシの愛猫の餌やりを、頼まれてはくれないかネ。キャットフードはカナダロイヤルセレクトの5歳用を……」

「……もういい。頼まれてやるから、それ以上は無理して喋るな……」


 その言葉を聞き届けたウィルフリッドは、心底から安堵あんどしたように微笑む。

 彼は残された最後の力を振り絞って、今度は鞠華のほうを見やった。


「鞠華クン……キミにも散々、酷いことをしてしまったネ……」

「ウィルフリッドさん……っ!」

「恨んでくれてもいい……だが、我が友……スバルのことだけは、どうか……許してやって欲しい……」

「えっ……?」


 彼の口から出た意外な名前に、鞠華は思わず耳を疑ってしまう。

 なぜこのタイミングで、天地あまち素晴すばるの話をするのだろうか。

 10年前に“東京ディザスター”で死んだ、父親のことを──。


 だが直後にウィルフリッドは、鞠華の認識を根底から揺るがしかねないことを告げるのだった。


「近いうちに、きっと会える……だか……ら……」

「ど、どういうことですか!? 会える、って……」

「すま……な…………」

「ウィルフリッドさんっ!!」


 鞠華は声の限りにその名を呼んだ。

 だが目の前の壮年はゆっくりと目を閉じ、次の瞬間、ふっと糸が切れたように全身から生気が抜けていく。

 かくしてウィルフリッドは様々なことを一方的に言い残した末、投げかけた疑問を解消しないまま力尽きてしまった。


「……あんたは、いつもそうだ……」


 自らの腕の中で生き絶えてしまった父親を抱きながら、匠は忌々いまいましげにささやく。


「いつも巫山戯ふざけているクセに、口が上手くて、自分勝手で、ズル賢くて……肝心なことは隠したまま、人をその気にさせる……」


 かつて匠は彼を指して『言葉から人を食らう大蛇おろち』と称したこともある。

 実際にその通りであるし、互いに胸のうちを晒しあった今でも、その感想は変わらない。


「……でも、あんたはいつも“嘘”だけは言わなかった……」


 彼の口を突いて出る言葉は、すべてが真実だった。

 それが結果的に誤解を招くようなことは多々あったが、それでも嘘をつくようなことだけは一度たりともなかったのだ。


 ウィルフリッドがそういう人物であるということは、昔から知っていた。

 知っていたはずなのに、いつしか彼の言葉が信じられなくなっていったのだ。

『愛している』。匠が一番に求めていた、その一言さえも。


「お願いだよ……お願いだから、今だけは“嘘だ”と言ってくれよ……父さん……」


 母の死をきっかけに、あまりにも長い時間ときをすれ違い続けた自分たち親子。

 その悲しき結末を呪った匠は、天に向かって慟哭どうこくした。

 自らの腕をこぼれ落ちた、あまりにもはかない生を前に──。


 これだから、私はこの父が大嫌いだったのだ。

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