六月二十六日

 夢を見た。一ヶ月ほど前のことだ。


 電話で呼び出された病院には根本一人だけが居た。六月二十八日、十九時過ぎ。その日は真木と真木の妻にとって一回目の結婚記念日で、だから真木は場にそぐわない、祝いのケーキを持ったまま病院を訪れていた。

 フロアには人気が無く、真木自身の靴がリノリウムの床を叩く音がいやにくっきりと響いた。根本は真木を認めるなり立ち上がって、しかし何も言わずに真木を見た。

被害者ガイシャは」

 真木はわざと仕事の口調でそう言った。そこにいるのがが妻であるということを、妻が殺されたのだということを、それを理解することを心のどこかが拒んでいるようだった。足元がひどく軽く不安定に思えた。踏みしめているはずの地面にすら現実味が無かった。

「今は」根本の声が、真木の耳には二重にも三重にもぼやけて響く。「医師の手が空いていないらしくて、司法解剖待ちです」

 根本が目線で指した先にはベッドがあり、シーツを被せられた遺体がある。横をすり抜けようとした真木の肩口を根本が掴んだ。

「何だ」

「……あの、……無駄だって、無理だってわかってて言うんですけど」

 スーツを掴む根本の手に力がこもる。根本は俯き、表情すらも見えない。ただ震える声と手がその様子を如実に真木まで伝えていた。

「見ない、方が」

 尻すぼみに小さくなる声はその先を言わなかった。真木は今朝も出勤前に見送ってくれた妻の笑顔を思い出す。一連の事件の手口は知っている。「例の連続不審死の一部と思われる」と連絡が来ていたことからも、今遺体がは容易に想像できた。

 笑顔どころか、ただ顔を見ることすらもう叶わないことくらい、わかっていた。


「真木」

 低い声に名前を呼ばれて、泥のような微睡みに漂っていた意識の焦点を声の主に合わせる。いつの間にか、デスクの前に鐘崎が立っていた。部署内は暗く、人の気配が無い。携帯の液晶に映るデジタル時計は、六月二十六日、午前零時過ぎを示している。

「こんなところで気を失ってないで、布団で眠れ。独身寮を一部屋空けたと言ったはずだ」

「……結構です」

「結構ですじゃあない、体調管理だって仕事のうちだ。業務中に事故でも起こしたらどうする」

 鐘崎の語気は強い。しかし口調は静かだった。

「気を落とすなとまでは言わん。仕事をするなとも言わん。――今のお前から仕事を取ったらどうなるかなんて考えたくもない。しかし、少しでもいいから横にならにゃあ、あっという間に体を壊すぞ」

 もうそれでもかまわないのだと反駁しそうになり、真木は沈黙を重ねた。それが鐘崎の思いやりだと言うことはわかっている。昔から気にかけてもらっていたことも知っている。だが、その思いやりをすら、受け入れるキャパシティが無い。

 結局そのまま、鐘崎に引きずられるようにして寮へ移動した。誰かが使っていた部屋を無理に空けたのか、部屋の中には他人の気配が残っている。


 鑑識は、真木への報告を渋った。鐘崎が言い添えなければ、きっとあのまま渋り続けただろう。鐘崎は「責めてやるな」と言ったし、真木自身、鑑識のその態度を責めるつもりもなかった。被害者遺族への情報開示は、誰だって気が重いものだ。

 妻――真木早苗の死因は、扼殺によるものだった。真木早苗の爪に残っていた皮膚の破片から検出されたDNAは、体内に残っていた体液のそれと一致した。

 遺体発見は十七時半過ぎ。「上階から何かを叩くような音がする」という近隣住民の通報により駆けつけた警察官が第一発見者となる。死亡推定時刻は通報の時刻から十七時半前後ということになるが、室内には買い物に出かけた形跡が無かった。真木と電話で話してから死亡推定時刻まで、五十分の空白がある。

 警官が駆けつけたときに第三者の姿はなく、遺体の傍には「あと二人」と書かれたカードが置かれていた。

 鑑識の話を聞き終わった時、真木は忘れていたことを思い出していた。


 国木田は、


 あのカードが警察へのメッセージであるなら、必ず見える場所に置かれているはずだった。しかし、現場にそういうものがあったという報告は出ていない。本人も持っていなかった。であればあのカードは誰が、どの段階で置いたものなのだろう。

 そのまま浅い眠りと覚醒を繰り返し、翌日の朝はドアを叩く音で目覚めた。不躾な足音は、そのまま部屋の中にまで入ってくる。

「真木さん、朝です」

「……なぜ」

 なぜお前がここにいるのか、なぜ部屋の鍵を持っているのか、なぜ俺をわざわざ起こしに来たのか、いくつかの質問が喉元までせり上がってくる。

「なぜってそりゃあ」真木を起こしたばかりの根本は、真木を布団ごと跨ぎ越してカーテンを引き開けた。「明けない夜はありませんから」

 根本はそのまま部屋を横断し、冷蔵庫から紙パックの野菜ジュースを取り出して真木に手渡した。

「この部屋は、お前の部屋だったのか」

「そっス。散らかっててすみませんけど」

 あたりを見回してみると、確かに散らかっていた。刑事訴訟法や捜査法の資料、ノート。「警察官になるには」というようなタイトルの古びた書籍。それから脱ぎ散らかした衣類と、野菜ジュースのパックが大量に入っているゴミ袋。

「真木さん、独身寮ここにいたことあります? トイレと風呂と洗面所は共通なんで、わかんなければ案内もしますよ」

 根本の様子は普段と変わらない。お前にとっては所詮他人か、と八つ当たりのようなことを考えて、自分の狭量にため息をついた。一回りも年下の部下に気を使わせているのだ、さすがにそうとまでは言えない。

「鐘崎さんからは『無理にでも引きずってこい』って言われてるんで、無理にでも引きずっていきますからね」

「……引きずられなくても、仕事はするつもりだった」

 鐘崎は昨日、「今のお前から仕事を取ったらどうなるか」と言っていた。自分自身、その時のことは想像もしたくない。

「身支度終わったら飯食いに行きましょ。近所にうまい朝定食があるんで」


 根本と二人で飯を食い、半ば遅刻気味にデスクに着くと、すぐに鐘崎がデスクまで来て、真木の顔を見るなり眉を顰めた。根本は指摘しなかったが、よほどひどい顔をしているのだろう。

「この事件を外れたければ外れてもいい。上には俺が談判しに行く」

 それはほとんど異例の提案と言ってよかった。あるいは思い余って問題を起こすと思われているのかもしれない。しかし、

「続けさせてください」

 事件を外れるという選択肢は、真木の中には無かった。鐘崎はわかっていたとばかり大仰なため息をつき、諦めたように笑った。

「今日から下村を真木の下につけるから、根本含め三人チームで動くように」

「え、下村さんスか」

「え、なんですかそのリアクション」

「だって下村さん鈍臭いんスもん」

「たっ、確かに運動神経は良くありませんけど、そんな言い方しなくたって」

「喧嘩するんじゃない。根本、書類仕事は下村の方が早いぞ」

「うっ」

「適材適所、それぞれうまく負荷分散してほしい。今日は――」

「あの」

 真木が急に声を上げたせいか、三人が一斉に真木の方を振り返った。「思い出したことが、ありまして」

「思い出したこと?」

「神林襲撃の際、国木田は『あと三人』のカードを持っていませんでした」

「うん?」

「ああ、そっスね。その前の二つの事件では『あと五人』『あと四人』のカードが現場にあって、今回の――」

「真木早苗の殺害現場には、『あと二人』のカードがありました」

 根本が言い淀んだ先を真木が続けた。

「国木田は前二件の殺害への関与を否定しています。カードも持っていませんでした。けれど今回の現場にあったのは『あと三人』ではなく『あと二人』のカードでした」

「つまり、今抜け番になってる『あと三人』のカードがどこかにあるはずだと?」

「真木さん、国木田の神林襲撃の事件、夢に見たって言ってましたよね。その時にはカードがあったんですか? その、『あと三人』の」

 あったはずだ。真木は既に薄れかかっている記憶をどうにか手繰る。そもそも、そうでなければただ模倣犯の事件として片付けていただろう。とはいえ、夢は夢だ。そう答えようとして、また別の記憶が蘇った。

「真木さん? どうかしました?」

 根本に顔を覗き込まれて真木は少しぎょっとした。しばらく黙り込んでしまったらしい。

「――夢は夢だ。念頭に置くべきじゃない」

 かつて自分が言い出したことを自分で否定しながら、真木は「夢」の記憶を手繰った。

 あの夢を見たのは三件目、神林襲撃が発生する日だった。六月十二日だ。夢の中でその事件が発覚したのも六月十二日、夕刻。真木は根本と共に、神林の知人や親類縁者に対しての聴取を行っている。その中で、国木田晴彦の影は出ていない。

 警察はこの連続殺人を「何らかの恨みによる反抗」と予測していたが、神林和也と、その前に殺された二人の間には何の関連もなかった。

 強いて言えば、神林と二人目の被害者である谷口静香の出身中学は同じだった。ただし、年齢が学年にして七年ほど離れているため、関連性は薄いとされた。東京のベッドタウンとして機能するこの地域で生まれ、そのままここで暮らす人間は少なくない。

 妻の死後、真木はこの事件の担当を外れている。というよりも、体調を崩して外されたのだ。数日もすると鑑識の検分は終わり、自宅に戻ることを許可された。反対する鐘崎や根本の意見を拒絶して部屋に戻ると、そこには妻の痕跡が残っていた。「おかえり」という妻の声すら聞こえそうなほどに。

 そこまでを思い出して、そうか、と思った。


 妻と同じく、真木自身もまた、一度死んでいるのだ。


 体調を崩し、自宅に戻ったあとの話だ。疲労と憔悴、後悔の果てに、真木は自死を選択している。七月の下旬。そして今、二度目の六月を生きている。

 もしもあれが、夢ではないとしたら?

 馬鹿げた考えが脳裏に浮かんで、しかしそれを否定しきれずに唇を噛む。という仮設は、今の真木にとってはひどく魅力的だった。

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時をかける中年 豆崎豆太 @qwerty_misp

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