六月二十五日
そんな風にして一日が過ぎ、二日が過ぎ、通報があれば現地へ急行し、その間にこまごまとした作業を片付け、文字通り飛び去るように日々が流れた。
週明けに出頭したナイフ購入者リストに上がっていたうちの一人は、事件当時も出張先で営業に出ていたという裏付けが取れて早々にお役御免となった。もう一人もそれと前後して見つかったが、こちらは死んでいたのでどうとも言えない。渓流へ釣りに出かけ、その最中に川に落ちたらしい。
「で、最後の一人が出てきたと」
根本がげんなりした様子で呟く。県内の、別管轄の強行犯係から送られてきた資料にその名前があった。斎藤裕太。数日前に路上で暴力沙汰を起こし、現行犯逮捕されている。どうやら相手が悪かったのか、返り討ちに遭って今は入院中らしい。
「これじゃあ出頭要請なんかで出てくるはずないっスね」
「向こうで詳しく聴取した後で、クロなら再逮捕だろうな。こっちで令状取って、向こうに送っておこう」
「うーっス」
「真木さあん」
声をかけられて振り返ると、隣の島から、真木よりは年下であり直接の部下ではない男がひとり寄ってくるところだった。
「この前真木さんが防いだ事件、あの夢のやつ、あれの被害者? ってなんて名前でしたっけ。神林で合ってます?」
城島が下がっているわけでもない眼鏡を上げながら言う。
「何かあったのか?」
「この前、事故があったじゃないですか。東名高速道の。あれの司法解剖とかの調査報告書がうちに回ってきたんですけど、こんな感じの名前だった気がして」
ぺらりと目の前に差し出された書類は、確かにあの事故のものだった。もちろんただの事故なら、一課にまで調書は回ってこない。喉の奥が締め付けられるように痛む。神林の名前が書かれたページの中ほどに、その記述があった。
「――睡眠導入剤?」
真木と、その横で書類を覗き込んでいた根本が声を上げたのはほとんど同時だった。
「事故起こした神林って男の胃と、運転席にあったペットボトルから見つかったそうです。致死量にはぜんぜん満たないんですけど」
「ペットボトルって、それはつまり」
「混入の手段は確認できませんでした。ボトルの上半分くらいが焼けてしまっていたので。でも第三者に薬を飲まされた可能性は高いと想像されます」
「この、プロチゾラムっていうのは、どういう経路で入手されたんだ?」
「心療内科とかで不眠治療に使われる、結構一般的? な薬らしいです。今回の件では、普通の不眠治療薬として処方される場合の倍量くらいは飲んでたみたいですけど」
心療内科。真木と根本は顔を見合わせる。
「国木田?」
「いや、既往歴は無かった。無関係のはずだ」
「真木さんだって今そう思ったでしょう? だからこっち見たんスよね?」
「しかし」
言いながら、真木は国木田の供述を思い出していた。脅された、監視されている、殺さなければ殺される。国木田の供述と、それに反して出てこない物証。妄想、心療内科、睡眠薬。そのどれもが繋がっているように思えた。
「行きましょう、責任を取りに! ここで逃げられたら、俺、あの事故で死んだ人たちに顔向けできないっスよ!」
根本に胸ぐらを掴まれて、真木はその手を叩き落とした。
「まず先に連絡だ。鐘崎さんに許可を仰ぐ。そうそう勝手はできない」
「令状待てってことスか、もうあの事故から何日も経ってるのに!」
「だからこそだ。もし広域の捜査になるならその体制を整えなくちゃならない。その場の勢いで動くな」
根本は何かを言い返そうとしたのか、しばらく口をぱくぱくと動かしたあとで、観念したようにぐったりと椅子に凭れた。その様子を見ながら、城島が「終わりました?」と茶々を入れてくる。
「ヒートアップしてすまなかった」
「いいえ、大丈夫です。上には俺から話してきますよ、調書預かったの俺ですし。さっきの話、鐘崎さんにしたことあります? 既往歴云々のやつ」
「ああ、鐘崎さんも知ってるはずだ。井戸端会議レベルだが」
「じゃあ十分です。遅くとも二時間後には令状が来ると思うんで、待っててください」
城島は真木と根本の様子に臆するでもなく、狼狽えるでもなく、表情も変えないままひらひらと手を振ってその場を離れた。真木も根本と同じく、椅子の背凭れにぐったりと寄りかかる。
「二時間待ち微妙過ぎる……何もする気しねえー……」
隣から聞こえる独り言に真木は内心で大いに同意したものの、口に出すのが憚られたので表面上は無視した。
「根本」
「はぁーいー?」
「さっきは悪かった。俺も、お前の案に賛成だ。本当はすぐにでも出て行きたかった」
「……わかってます。大丈夫です。俺の方こそすみません、カッとなって胸ぐら掴んじゃって」
「暴行罪だな」
「っスね」
「許す」
「わぁい」
先の宣言通り、城島は二時間もすると令状を取って戻ってきた。渋々といった具合で書類に向かっていた根本は、城島の姿を見て文字通り飛び上がった。
「お疲れ様です。令状、取ってきましたよ」
「あの推測だけでよく取れたな」
「任意聴取における虚偽申告の恐れ、再犯の恐れ、逃亡の恐れで押し切りました。供述の内容が怪しかったんで大丈夫でしたよ」
「現場へは誰が?」
「真木さん、根本さん、三上さん、あと俺です」
三上というのは城島の直属の上司で、鐘崎の同期だ。おそらく、鐘崎の時間が取れない代わりに三上が出ることになったのだろう。
「大所帯だな」
「二人ずつに分かれたら二組にしかなりませんよ。例えば原付とかで逃げられた時に、パトカーで待機してる人間がいなくちゃあ不便でしょう?」
尤もだった。一度目に国木田を逮捕した際は抵抗もされなかったが、今回もそううまくいくとは限らない。
「とにかく出ましょう。車の利用許可あるんスよね?」
根本は居ても立ってもいられない様子で、既にパソコンをスリープし、参照していた資料も片付けてしまっていた。
「もちろん。五番車と六番車を押さえました。真木さんたちは五番車を使ってください」
「覆面スか」
「念には念をってことで」
国木田の住居は管轄区内にある。神林の住んでいた部屋から、自転車で三十分もかからないような近所だ。国木田は自動車整備士として働いていて、凶器に使ったハンマーも勤め先の備品だった。
もしも、国木田の犯行がすべて妄想から始まったとしたら。あのときの供述がすべて嘘だったとしたら。運転しながらそんなことを考えていた真木の脳裏に、何かが引っかかった。
「根本、何か忘れてないか?」
「何かって何スか? 免許証とかスか?」
「いや、そういうんじゃなく、……何か、別の」
「別って言われても、さっき一回点検しましたし――あ、次の信号左っス」
違う。荷物のことではない。もっと別の、何か重大なことが頭から抜けている。
「さっきまで書類仕事でしたし、なんかのジャンクデータでも引っかかってんじゃないスか」
そうだろうか。そんな風にも思えなかったが、真木は一旦それを忘れることにした。集中力を欠いては思わぬ痛手を食うことになる。今は何よりも、目の前に集中するべきだ。
目的のアパート周辺に車を停め、国木田の住所へ向かう。部屋にいないようならば、三上班を見張りに置いて職場へ向かう。職場にもいないようなら、管理会社に連絡して部屋の中へ。ある程度の手はずは固まっている。
耳に無線イヤホンを着け、襟に同じく無線のマイクを付ける。三上の携帯に一度コールし、折り返しがあるのを待つ。二分としないうちに折り返しがあり、それを取る。マイクからの音声はすべて三上の携帯に転送され、そちらで録音される。
『三上班アパート前に到着、真木根本両名を確認。二人は中へ』
「国木田の部屋の窓が開いています。そちらから出ていく可能性があるので、見張りをお願いします」
『了解』
真木と根本は国木田の部屋に向かって階段を上る。途中すれ違った住人が、二人を見てぎょっとしたように道を譲った。
国木田の部屋は静かだった。電気メーターもほとんど回っていない。おそらくは冷蔵庫か何かの分だろう。
チャイムを押し込む。応答はない。もう一度押す。ドアの向こうで、確かに音が鳴っているのが聞こえる。
「留守っスかね」
「一階じゃないとはいえ、留守にするのに窓を開けたままなんてことがあるか?」
「ちょっとコンビニとかその程度ならあり得るんじゃないスか?」
「三上さん、どうしますか」
『根本の意見も一理ある、少し待ってみよう』
「存外ドアの鍵も開いてたりしませんかね?」
言いながら根本がドアノブに手を掛け、ひねった。真木は「まさか」と呆れて笑ったが、
「――え?」
ドアは開いた。
「三上さん、ドアが開きました。ドアに鍵はかかっていませんでした。中から応答ありません。踏み込みますか」
『二分待て。我々もそちらへ向かう』
「了解」
あまりにも長い二分間だった。心臓が早鐘を打ち、汗が吹き出てくる。中から国木田が飛び出してくることに対する不安ではない。ドアの中から匂いがするのだ。
これは腐臭だ。
何か別のものであればいい。キッチンで食い物が腐っている程度であってくれればいい。真木は必死にそう願うが、その種類の匂いでないことも明白だった。食料が腐った時に、膿の匂いはしない。傷んだ葉物野菜の甘い香りでも、玉ねぎやじゃがいもの腐ったドブのような悪臭でもない。ウジの沸いた死体の匂いだ。
「真木」
「ここです」
駆けつけた三上は真木の声に小さく頷くと、ドアの一番近くに立った。それから真木、根本、城島に目配せし、そっと中へ入る。三上に続いて入った部屋の中にあったのは、想像とほぼ違わない光景だった。死体は半ば腐り、床に体液が流れ出ている。後から入ってきた根本と城島が、落胆とも辟易ともつかない声を上げた。
「国木田か」
「……そう見えます」
死体の近くには倒れた酒瓶とゴミ箱があり、空の錠剤シートが大量に捨てられている。着衣に乱れはなく、争った形跡もない。
「取り敢えず撤収だ。こうなってはできることがない。急ぎ、鑑識に連絡を。それから大家と、国木田の職場に連絡。近隣住民への聞き込みに入る」
国木田の遺体から検出されたのは、神林から検出されたのと同じ種類の睡眠薬だったらしい。しかし直接の死因は薬ではなく、酒に水分を奪われ、睡眠薬に意識を奪われての熱中症によるものだった。酒と薬は致死量に達していて、どちらにせよ遅からず死んだだろうというのが鑑識からの報告だ。
遺書はなく、職場の人間への聞き込みでもそれらしい振る舞いは認められなかった。
同時に、やはり国木田に既往歴は無かった。睡眠薬の入手ルートは不明、遺書も存在しない。状況だけが国木田の死を自殺とする根拠になっている。
真木は時計を見た。十六時四十分。
「根本、すまないがちょっと電話を掛けさせてくれ」
「じゃあその間に自販機で飲み物買ってきますよ。熱中症対策ってことで、麦茶でいっすか」
熱中症の死亡事例を見た直後だからか、普段はそんなことを気にも留めない根本は少し過敏になっているようだ。
「助かる」
私用の携帯で呼び出したのは妻の番号だ。ふたりとも携帯を持っているから、部屋には固定回線を引いていない。
『もしもし?』
「もしもし。すまない、今日は遅くなりそうだ。夕飯は作らなくていい。――遅かっただろうか」
『ううん、今買い物に出ようとしてたところ。帰り、何時ころになりそう?』
『疲れて帰ってくるんでしょう?』
受話器の向こうでチャイムが鳴り、妻が「はあい」と返事をしているのが聞こえた。
『夜食とか、必要なら材料買ってこなきゃいけないし』
「気にしなくていい。今、誰か来た?」
『宅配便だって。取り敢えず切るね。くれぐれも無理はしないでね』
「ありがとう。十時を過ぎるようならまた連絡する」
電話を切ると、ほんの少しの間だけ周囲が静かになる。集中していた耳元の声は消え、遠ざかっていた喧騒が戻ってくるまでの僅かな時間。
「あれ、もう電話終わったんスか? もっと喋っててよかったのに。麦茶どうぞ」
「ん。小銭、車にあるから後でもいいか」
「トイチっスよ。十分で一割増」
「法外だな。――業務時間中だ、あまり無駄話しているわけにもいかないだろう」
「いやいや真木さん新婚スよ? 電話くらいで誰も文句なんて言いませんよ。結婚記念日の準備とかうまくいってます?」
「仕事に戻るぞ」
「ええー、もうちょっと日陰にいましょうよお、暑いんスからあ」
「新婚なんだよ。とっとと仕事して俺を帰らせてくれ」
「うぐっ」根本が喉に何かつまらせたような声を出し、笑い含みに真木を睨む。「言うようになりましたよね、真木さんも」
「誰かに散々説教されたお陰でな」
「誰スかそんな余計なことをしたの」
「十分休んだろ。出るぞ」
「うーす」
昨日と今日の二日で、職場周辺への聞き込みはおよそ完了している。残りは、十七時から出勤することになっている従業員が二人だけだ。それが終わり次第署に戻り、明日朝の報告に向けて摘要を起こす作業をしなくてはならない。
国木田は神林襲撃の後、無断欠勤の後に会社を辞めている。その間の足取りは追えていない。巡回の警ら隊からは、「変わった様子はなかった」とだけ報告が来た。変わった様子とはつまり、第三者の襲撃のようなレベルの異常を指す。
二人のうちの片方は、国木田とほとんど面識がない男だった。工場内ですれ違うことこそあれ、ほとんど話もしたことがない。業務的にもほぼ無関係だったらしく、国木田の顔写真を見せてもすぐにはそれと判別できなかったほどだった。「車なら簡単に見分けられますけど人間はよくわからない」とは当人の弁だ。
もう片方は比較的、国木田と親しい人間だった。とはいえ連絡先や住所を知っているわけではなく、顔を合わせれば話をするという程度だったが。
「会社を辞める前、あるいはその後、国木田さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「……辞める直前ではないんですけど、『殺されるかもしれない』ってぶつぶつ言ってたことはあります」
殺されるかもしれない。それはおそらく、神林襲撃の直前頃の話だろう。国木田本人の供述と照らし合わせると、今からおよそ二、三週間前の話になる。
「その話、詳しくお聞きしてもかまいませんか?」
「詳しくは知りません。ずっと上の空っていうか、呆然としてる感じがしたので、『具合でも悪いのか』って訊いたんです。そしたら、そう答えて。どういう意味だって訊いたんですけど、言えないって」
「その前は、似たようなことは?」
「いえ、特に」
「その時は通報等はしなかったんですね?」
「本人が、警察に喋ったら殺されるって繰り返していたので。異常だとは思ったんですけど、異常すぎて何もできないっていうか。じゃあ逃げればとは言ったんですけど」
「その他に何か気がついたことはありませんか? たとえば、国木田さんを監視しているような人間がいたとか」
「気が付きませんでした。そういう人がいればさすがに通報したと思います」
彼は当惑を浮かべたまま答えた。根本が小さく「っスよねえ」とぼやいているのが聞こえる。
「国木田は、あいつは、殺されたんですか」
そう尋ねる彼の顔は蒼白だった。「自分が通報していればあるいは」という不安が強いのだろう。捜査の内容を喋るべきではないと思いつつも、真木は男に少しばかり同情した。
「国木田さんは、一度警察に相談に来ています」
彼の質問に答えたのは根本だった。
「我々はその時、証拠がないからと彼の訴えを退けています。まだ捜査の途中なので、他殺かどうかははっきりしていませんが、他殺だったとしても責任は我々にあり、あなたにはありません」
男の視線が、根本の顔にまっすぐ注がれる。その目に迷いと戸惑いと恐れと怒りが交互に浮かぶのが見えた。根本は直立不動でその視線を一身に浴びた。自分たち警察官が、今できる精一杯のことがそれだった。
「すみません、勝手なことして」
車に戻ってから、根本は小さく謝った。
「いや」
真木は即座に答え、それから続きの言葉に迷った。根本ほどの瞬発力が真木にはない。
「……説教は受けるかもしれないが、俺はあれでいいと思う」
「ああいうのが俺、一番しんどいです。仕事してて」
根本の正義感は強い。切り替えが早いのが長所とは言うが、落ち込まないわけではない。真木自身、被害者ではなく加害者でもない関係者が自責するのを聞くと、今でも身が縮む思いがする。被害者を割り切っても、加害者を割り切っても、第三者を割り切ることはなかなかできなかった。
根本は署に戻るまでの道中でたっぷりと落ち込み、署に戻って車を降りた瞬間には元通りに復活してみせた。器用だ。
「さ、とっとと摘要起こしちゃって帰りましょ。疲れましたし」
現在、十八時半。摘要を起こすのにもそんなに時間がかかるわけじゃないだろうが、腹は減るだろう。妻にも夕飯はいらないと連絡したところだし、定時までの業務と残業の間に三十分程度の休憩を取ることは咎められるものでもない。
「そうだな、近所で蕎麦でも――」
「真木!」
半ば叫ぶような声に振り返ると、鐘崎がこちらに向かって走ってくるところだった。
「なぜ電話に出ない!」
「電話?」
言われてポケットの携帯を見ると、二十分ほどの間に着信履歴が数件溜まっていた。
「すみません、今さっきまで運転中だったもので」
「なんでもいい、すぐに来い!」
「何かあったんスか?」
「事件だ」
鐘崎の面持ちは固く、声にも緊張が滲んでいる。
「――例の連続殺人の四件目が出た」
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